「好事魔多し」って言葉くらい、真実を突いてる言葉ないなあと思いまして。うまくいっている時が、一番危ない、というやつですね。
「好事に魔が起こらなかった」と言う人なんて、この世に存在しないんじゃないかと思います。そういう人は、もう、この世に生きる必要のない、神・仏、のレベルですよね。
だから、好事に魔が起こったからといって、「何故なの?」「どうしてなの?」と大騒ぎする必要は、ないと思うんですよね。好事だったからだよー、というだけの事で。もうそれは、人間の宿命なんじゃないですかね。
宿命というのは言い過ぎとしても、人間らしさ、というか。生身の人間なら、仕方のない事、というか。
好事はどうしたって、自分を省みる事なんてできないですし、今の自分のやり方が全て正しいのだ、と思ってしまいますし(だって何もかもうまくいっているから)、そしたら当然、油断もすれば、傲慢にもなり、また止せばいいのに、自分の好事を吹聴したくもなり、その油断、傲慢、自慢が、「魔」を引き寄せる。
とても自然です。超ナチュラル。
好事が続けば、油断傲慢自慢が雪崩のように我が心に入り込む事はもう、これ、仕方のない事だと思います。もうそれを悔やんだり、自分を責めたりする必要もないぐらい、当たり前の事だと。
好事にお約束のように「魔」が起こったら、ああ、来たな、と、そこはもう淡々と油断を外し、傲慢を削り、自慢を捨てる作業を行えばいい。その作業を、淡々と行うだけで、良いと思います。ただそれだけで、「魔」は消えて行く。
人によって、油断多目、とか、傲慢過多とか、偏りはあるから、起こった「魔」の種類で、自分の偏りを知るのも一考。
たま~に、好事でも魔が起らないように見える人がいるけど、あれは、上手に好事をコントロールしているんだと思う。好事過ぎないように。
つまり例えば、多額の収入があれば、同時に多額の寄付をするとか。好事を独り占めしない、という事が、大事なんだろうなあと思います。
そう考えると、何においても「おすそ分け」っていうのは、人の為じゃなく自分の為にやるものですね。好事が続いた時は必ず「おすそ分け」する、という習慣をつけておく事が、魔に落ちないコツかもしれません。