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書くしかできない

子供、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

自称カウンセラーさんの危険

日々の思い

 日差しがあたたかいから、日差しに顏を向けて歩いている。もう少し季節が進むと、日陰を選んで歩くようになるのだが、今はまだ、日差しのあたたかさが快適だ。吹いてくる風も、何かのご褒美かと思うほど、ふんわりと肌に心地良い。至福な季節の到来。

 先日書いた、古文の問題集の答えの件だが、昨日の休み時間に、わざわざ古文の先生がクラスまで出向いて配ってくれたそうだ。昨日、息子は喜び勇んで帰って来た。今朝は朝から張り切って古文の問題集をやっている。私も学校に電話する必要がなくなった。何はともあれ、先生に感謝。よかったよかった。

 

 今日は、ちょっと大げさなタイトルをつけてしまった。「物事を100%完璧にマスターできていなくても、自分の持っている知識量を元に、他人にアドバイスする事には何の問題もない」と発言されていた方の記事を読んだので、その事について、書きたいのだ。

 もう少し整理して書くとこういう事だ。

 心理学を学び始めた初心者カウンセラーさんがおられる。その方は、心理学をマスターしようと頑張っている途中で、まだ求められている知識量の60%しかマスターできていない。でも、60%の知識量しかない自分でも、自分より知識量の少ない人(例えば30%の知識量しかない人)に、アドバイスする事はできる。だから自分が、プロのカウンセラーを名乗って起業しても良い、とその方は書いておられた。60%の人が、30%の人に、アドバイスする事は、問題ない、と。つまり、物事を100%完璧にマスターできていなくても、自分が知っている範囲の知識量で、自分より知識の劣る他人にアドバイスする事は、何ら問題ではない、と。

  私は正直、同意できなかった。人間の「心」の事を、60%しか把握できていない人(仮にAさん)が、他人(仮にBさん)の心の闇に手をつけて良いのか、と疑問に思うからだ。

 Bさんの心の闇が、Aさんの把握できていない知識の残り40%の部分から起こっているのだとしたら、どうなるのか。

 Aさんに、Bさんの闇が自分の把握できていない部分所以で生じていると、知る事は不可能(そもそも把握できていないから)、であればAさんは、Bさんの闇を、自分が把握できている60%のどこかに無理やりあてはめてBさんに見当違いのアドバイスをしてしまう事になる。

 これは危険だと私は思うし、往々にしてカウンセリングの世界で起こっている事だとも思う。

 カウンセリングというのは、心理世界の医療行為に他ならない。「私はプロのカウンセラーです」と名乗る以上は、今現時点で持っているべきだと期待されている心の知識100%を持っている人だと期待されている。にも関わらず、実際には60%の知識しかなければ、それは、不適当である、と私は思う。偽りの看板、経歴詐称にあたる、と思う。

 クライアントが強い人なら「カウンセラーさんのほうがおかしい」とか、「カウンセラーさんの言う通りにしたけれど良くならない」と言えるだろう。そこでそのカウンセラーさんはどう答えるか。「はい、私が間違っていました」と認めるはずはない。むしろクライアントが間違っている、とクライアントを責めるだろう。本当は、カウンセラーの指導が間違っていたのに、それは認めず、間違った指導を受けたから当然改善しないクライアントが間違っている、と言うだろう。これでは、病んでいるクライアントは救われない。 

 プロを名乗るなら、特に医療系のプロを名乗るなら、必要とされる知識は全てマスターしておいて欲しいし、それができていない人は、プロと名乗って欲しくないと思う。未熟なカウンセラーさんが、心の闇を抱えたクライアントさんに無責任にアドバイスを施す事ほど、危険な事はないと思う。心理の世界では誰も責任は取らなくていいから、こんな事がまかり通ってしまっている。臨床心理士を省き、一般にカウンセラーには国家試験が無い現状は、とても怖いと私は思っている。

 私も、子供が小さい頃、自称カウンセラーを名乗る人に、子供についてあれこれ指導されたが、どれも的外れだった苦い過去がある。当時は、カウンセラーになるのに試験がいらない、というような事実は知らなかったから、頭から信用してしまい痛い目にあった。ああいう経験は二度としたくない。

ちょっと気が重い遺伝

日々の思い

 前回書いたように、私は、初めての事が大抵うまく出来ないくせに、初めての時が一番楽しいという不可思議な性格を持っている。このせいで、昔から、異様に念入りに段取りを考える癖がついたし、時間より早め早めに動く癖もある。

 例えば、働いていた時は、就業時間の1時間前には出社していた。就業時刻は8時半で、通勤時間が1時間程だったので、6時過ぎには家を出ていた。起きるのは5時台だ。でもその時間だと、通勤電車も空いていて、乗換もあったが、最初から最後までゆったり座っていけたのだ。早朝に会社に着けば、電話も鳴らないので仕事もはかどる。周囲にも、「早く来る人→真面目な人」という印象を与え、仕事上で得をする事が多かった。早め早めに動きたい、段取りよく動きたい、という私の癖が出た結果だ。

 最近この癖が、息子にもしっかり遺伝している事に気が付いた。

 息子の高校は郊外にあるので、普通の時間に登校しても通学電車はさほど混んではいない。だが彼は、登校時刻の30分以上前には学校に着く段取りで家を出る。当然電車はガラ空きで、毎朝、窓の景色等眺めながらゆったり座って登校するらしい。早く着いて学校で何をしているのかというと、毎朝一番でやる小テストの暗記をしている。彼は発達障害の特性か、記憶が得意で覚えるのも早いし覚えたら忘れない。大体15分ぐらいで覚えてしまって、後は校内をブラブラしているらしい。この段取りが彼には快適らしい。

 ところで早めに家を出る為に、彼は5時台に起きるので、私も5時台に起きる事になる。朝ご飯やらお弁当やら作らねばならないので。6時過ぎに起きれば間に合うのに~!と、いつも腹立たしく思っていたのだが、早め早めに動きたがるのは私も同じだったなあと思えば、諦めるしかない。妙なところが遺伝するものだ。

 その「妙な遺伝」のせいで、もう一つ困った事があって、私を悩ませている。余所の高校もそうかもしれないが、息子の高校は、学校指定の問題集を生徒に配布する際、解答を生徒に渡さないのだ。解答を渡してしまうと、答えを移して宿題をしたフリをする生徒が出るからだそうだ。ただ、その方針も、教科の先生によって異なり、中には最初から解答を下さる先生もいるし、定期テストの直前に下さる先生もいる。そして、全く下さらない先生もいる。正直、この方針に対しては私は、高校の考え方に同意はできない。真面目な生徒の方向を見るより、不真面目な(答えを丸写しする)生徒の方向を見る、という方針が、あまり好きにはなれないからだ。こういう方針をとっているから、あの高校は今一つ上のランクに行けないのだろうと、八つ当たり気味に思ってしまう。

 どの教科の問題集には解答があるのかないのか、把握するのも面倒くさいのだが、こういう「徹底していない状況」は、息子にはとても負担になる。もともと嘘がつけない、ズルができない発達障害児なので、「答えを見て宿題をする」という事が想像できない。だから私が、「そういう生徒もいるのよ」と教えて納得させるのがまず一苦労。その上で、何故解答をくれる先生と、くれない先生がいるのか、というややこしい状況にも、彼に納得できる説明をせねばならない。

 何故息子が前以て解答が欲しいのかというと、学校で勉強したその日に、復習してしまいたいからだ。ためておいて一気にやる、というのが嫌いなので、都度都度問題集で復習したいのだ(高校では、ためておいて一気に宿題に出し、授業中に答え合わせをする方法をとっている)。でも、解答がないと、宿題が出る前には、問題集がやれない。彼が得意な科目だと、解答が無くてもまあこれが正解だろうという答えを書いて自分で納得できるようなのだが、苦手な国語系の問題は、解答が無いとお手上げなのだ。それで、先日、彼はとうとう古文の先生に「家で復習するのに解答が欲しい」と言ってみたらしい。彼としては相当に勇気を振り絞った行動だったと思う。その勇気が通じたのか、先生が「そうか。ではこのクラスだけ、前もって解答を配ってやろう」と言ってくれたそうだ。

 だが、問題はこの後だ。この古文の先生、次の授業になっても、解答を配ってくれなかったのだ。息子は「先生、解答は?」ともう一度、勇気を振り絞って尋ねてみたらしい。すると先生「あ、そうだったな。今度持ってくるよ」と言って、また次の授業にも持ってきてくれなかったそうだ。

 ここに来て、息子が私に相談してきた。息子としては、3回も同じ事を先生に頼みに行く(催促しに行く)のは、苦痛らしい。気持ちは分かる。彼なら(というか、私も)一度約束した事は、必ず守ろうと努力するからだ。忘れっぱなしで放ったらかし、という事はしない性分なのだ。だから息子は、古文の先生のやり方が理解できないのだ。でも現実問題、世の中にはわりとそのへん、ルーズに適当にやられる方も多いし、また、そういうルーズさに対して、さして腹を立てない人も多い。それも後天的に学んだので、息子には分かっているのだが、分かっていても、相当にストレスがかかっているようなので、なんとかしてやらねばならない。

 私が学校に電話するしかないのだろうな、と今は思っている。担任を通して古文の先生に伝えてもらうか、古文の先生と直接話すか。どちらが適切なのだろう。ちなみに高校には、息子が発達障害だという事は伝えてあるので、こういう時、若干電話しやすい。つまり、「ちゃんとしてくれない古文の先生が悪い」という方向ではなく、「四角四面に動きたがるウチの息子が悪いのですが」という方向で話しができるからだ。息子は何も悪くないのだけれども、先生を悪者にして息子が得をする事は万に一つもない。先生に対して不愉快な要件の電話をする場合、こちらに非があるという建前を作れるのは、安全弁だと思っている。

 それでもやっぱり、来週早々学校に電話せねば、と思うと少しだけ気が重い。

初めてバイアス

日々の思い

 私は何かを初めて行う時、勝手が分からず要領も悪くなり、思うように出来ない事が多い。

 例えば、初めてその土地に旅行に行く時、土地勘が無い為に無駄が多くなり、後で「あそこも回れば良かった」とか、「あそこで時間を使うのではなく、あそこで時間を使えば良かった」とか、「後で知った裏情報をもっと早く知っていたらもっと楽しめたのに」等々、色々悔やむ事が多い。そこで、二度目はもっと要領良く過ごせるからもっともっと楽しめる筈、と思い、再度その土地に旅行に行く。ところが、私の場合、どんなに要領よく過ごせても、初めて行った時ほどは、楽しめないのだ。新鮮さが薄れてしまって、驚きが減ってしまって、悦びが減じてしまって。

 「どんなに要領が悪くても、初めてそれを行う時が、一番それを楽しめる」これを私は勝手に、「初めてバイアス」と呼んでいる。

 輪廻転生、という言葉があるが、もしかしたら私の魂は、何度も生まれ変わっているのかもしれない。だが、今この生は、私にとっては初めての生で、過去生の記憶は全くない。だから勝手が分からず要領も悪く、思うように出来ない事が多々ある。「あの時、ああすれば良かった」とか、「あの情報をもっと早く知っていれば良かったのに」とか、悔やむ事も多々ある。だが、では、もう一度、全ての記憶を保持した上で、同じこの生を最初から生き直せたとしたら、私は人生を楽しめるだろうか。新鮮な驚きも悦びも、味わえないのではないか。

 この人生が新鮮であるという事を、初めてであるという事を、不安や後悔にするのではなく、喜びに変えてもいいのかもしれない、とふと思った。