先週、インフルエンザの予防接種を受けた後から、なんとなく体調が悪い。元気が出ない。
いつもなら、予定のない平日は、どこに出かけようかと張り切るのだが、今週は何も予定がないのにずっと家にいる。季節がよくなったので長居公園に行きたいとずっと思っているのに、疲れていて家から出たくない。夜も急にお腹が痛くなったり、なんなら一日中倦怠感で、ずっと寝ていろと言われたら寝ていられるぐらいだるい。
まあ私は家事さえしてしまえば、あとは一日寝ていても誰にも迷惑はかけないので、有難い環境だと思う。ここは感謝すべきところ。
しかしなんなんだろう。インフルの予防接種は関係なくて、急に気温が下がったり、雨がちだったりして、自律神経が驚いているのだろうか。歳とともに自律神経が弱くなっていくのは感じていて、特に気温の変化に体が慣れるまで、弱い自律神経がフル回転しているのは感じる。エネルギーのほとんどを自律神経に使われている感じ。昨晩は、寝入りばなにものすごく汗をかいて、自分の寝汗が不快で一旦起きてしまった。暑くもないのに寝汗がすごくて、気持ち悪いので着替えて、たまたまそのへんにあった団扇で自分を仰ぎながら横になっていたらまた眠れた。汗をかいた後はわりと調子が戻って来た。
少し前に唐招提寺で芭蕉の句を見てから、おくの細道を読み直しているのだが、松尾芭蕉の人間味を改めて面白いと感じる。
若い頃に読んだ時は、よく分からなかった。
芭蕉がおくのほそ道を書く旅に出たのは、46歳の時。江戸深川の芭蕉庵を出て、東北、北陸、伊勢、滋賀をまわり京都にも寄った。時代は1689年、江戸時代だ(ちなみに江戸時代は1603年から1868年)。今のような公共交通機関は一切なく、各所に関所があり、移動に厳しい時代だ。芭蕉も、移動はほぼ徒歩で、泊る場所も宿屋がない土地も多くてそういう時は貧しい民家の隅に寝かせてもらったりしていたようだ。馬小屋とか。寝ていると枕元に馬の尿が飛び散ったとか、蚊や蚤に刺されまくるので寝られない等といった句もある。
そもそも武家の参勤交代でもなければ、移動などしない時代だ。庶民は生まれた場所で生き死ぬ時代。それが当たり前の時代に、芭蕉はなぜ東北から伊勢滋賀まで巡ろうと思ったのか。
芭蕉は、過去の有名な句に謳われている場所を、この目で見たかったからだそうだ。
それを知った時は、親近感がわいたというか、とても共感した。卑近な例で申し訳ないが、私も中年以降になってから、ある日忽然と神社仏閣に取りつかれ、名前だけは知っている場所をこの目で見たいとあちこち出かけるようになった。今の時代はSNSがあるから見る事だけは出来るけれど、実際に自分で行ってみたい。時間や手間や交通費をかけてでも。
芭蕉も同じ気持ちだったんだなあと思った。
当時の46歳と言えば立派な中年、なんなら老年期に足を踏み入れている。そんな年齢で若者でもしないような遠出の旅に出かけたのは何故?と以前の私は不思議だったのだが、今の私は共感できるのだ。
芭蕉が生まれたのは1644年だから、江戸時代の初期に生まれている。そういう時代の人なのに、句から漂うこの現代感は何だろう。明治の句だと言われても、昭和の句だと言われても、さして違和感がない。当時の常識や通例にこだわらず自分の感覚だけで詠んでいるから、現代的というか、普遍的なのだと思う。
1つご紹介してみる。
一つ家に遊女も寝たり萩の月
伊勢に向かう宿で詠んだ句。難所を超えて疲れ切ってとった宿で、同じく伊勢を目指す疲れ切った遊女二人連れがいた。
芭蕉と同行人(付き人兼弟子のような人)は僧形をしていた。遊女から、伊勢までの道筋がよく分からず心細いので同行して欲しいと頼まれるが、芭蕉は断る。
僧侶と遊女という、両極端な存在、でも俗性からはみ出た存在という共通点もある。同行してあげても良いのに、すげなく断る。遊女などとは関わりたくないという芭蕉のある種の傲慢さ。僧形であっても万人を平等に扱わない人間臭さ。生臭さ。
芭蕉は、句にきれいごとは持ち込まない。女と書いてもよいところを、わざわざ「遊女」と蔑みや嫌悪をこめて書いている。萩の月と言うからには季節は秋。秋の夜。美しい季節であっても、俳句の名士であっても、俗な部分を持つというところが現代的。
ちなみにこれは架空のエピソードだとも言われている。実際には宿には遊女などいなかったとか。俳句は見たものをそのまま詠むと言われているが、意外と架空のケースも多い。なぜわざわざ架空のエピソードを詠んだのか、そこまで考えて味わうと面白い。
萩の花。画像はネットからお借りしました。確かに遊女の風情があるかもしれない。
おくのほそ道は、今でいうところの旅系YouTubeに近いと思う。旅の様子をただ報告するのではなく、17音に凝縮していった、という所が芸術なのだが。
それにしても江戸初期だ。ついこの間まで戦国時代だったわけで。今のようなグーグルマップなんかない。いや、紙の地図すら存在しない。道順はその土地その土地で地元の人に聞きながら進むしかない。目印となる建物もない。当時の東北には、草木が生えた中の「奥まった」「細い道」しかない。その道があっているのか、その先に目指す土地があるのか、全く分からない。手探りで一歩一歩進むしかない旅。途方もない苦行だと思う。それでも楽しかったのだろうか。きっと楽しかったのだろう。
またしても卑近な話だが、私は勝手のわからない土地に行くと、すぐに迷ってしまう。この便利な現代において、なぜ迷う事があるのか?と思われると思うが、グーグルマップが必ずしも正しいとは限らないし、グーグルマップに載っていない道があったりして迷うのだ。電車も2時間に1本とかだと絶望的な気持ちになる。普段は数分に1本の地下鉄でどこにでも行けてしまう生活なので、精神がなまっちょろい。ちょっと不便な所に行くと途端に不安にかられてしまう。
芭蕉のような風流人が、よくぞ道なき道を進み、東北くんだりまで行ったものだと思う。筋肉粒々の冒険家ならまだ分かるけれど、神経の細かい繊細な芸術家で若くもないのに。更にそれで江戸に戻ったのかといえばそんな事はなく、伊勢や滋賀まで行ってしまうのだから。すごいね。そりゃ、後の世にまで句集が残るはずです。