先日、Huluで、劇団ひとりさんがロッククライミングをしているドキュメントを観た。ひとりさんは、完全なる趣味としてロッククライミングをされているそうだ。理由は「ひりつきたいから」とのこと。
ほぼ垂直に見える、足場のない岩山にしがみつき、少しづつ少しづつ登っていく。とてつもなく時間がかかるので、途中で岩山にハンモックをかけて眠る。起きたらまた登る。
まったく足をひっかける所のないツルツルした岩の、1㎝の凹みにつま先を入れ、そこに全体重をかけて全身を引き上げる。上にのばされた両手も、何もひっかかりのないツルツルした岩だ。ほんの少しの摩擦、ほんの少しの出っ張りにしがみつく。
ずっと観ていたら、これは私の子育てと同じだなとふと思った。おそれ多い言い方だが。
何も確かに思える事がなく、頼りにできるものもないけれど、ただ登るしかなく、一瞬も力を抜く事は許されない。起きている間は緊張し続け、一瞬でも判断を誤れば、また判断は正しくてもそもそも登れるべき場所ではなかったら、落ちて死ぬ。苦しさに負けて力を抜いてしまえば、また落ちて死ぬ。死にたくないが為に、何の手がかり足がかりもないものにしがみつき、なんとか少しづつ登っていった先にあるのは、ただ登ったという事実だけ。ただそれだけ。
でも最近私は、こういう状況に、ひどく落ち込むという事がなくなった。
息子が荒れ散らかしたり、わけのわからない矛盾に満ちた我儘を言い募り、それが実現せねば生きていけないだの引きこもるしかないだのキレ散らかしたりした日は、さすがにその日一日はしんどいし、私はこのまま鬱に突入するのかなと思ったりするが。
翌朝もさすがに、う~しんどい、起きたくない、生きたくない、八方ふさがり、と萎えて動けなかったりもするが、それでも無理やり起きて、日常のルーティンをこなしているうちに、段々と動けるようになってくる。
長年、発達障害児育児をやってきたので、八方ふさがりが当たり前になっていて、そこをどう突破するかを考え悩む事が、そのまま自分の在り方になっている。
足場のないツルツルした岩場をどうやって登るかを考え悩む事がクライマーの在り方なのと同じで。
息子の人生が常に八方ふさがりだからこそ、考え悩む必要があり、何も確かなもの安心できるものがない中で、むしろ腹立たしい事おかしな事苦しい事ばかりの中で、最適解を無理やり作る事が、私の人生そのものなのだと感じる。
最適解を探す、のではなく、最適解など存在しないので、最適解を無理やり作る。あり得ないものを作るしかない。出来ないのではなく、やるしかない。
抽象的な話ばかり書いて申し訳ないが、息子のような発達障害者には、通常の常識や正論はもちろん通じない。
息子は、やりたい事とやりたくない事がハッキリしていて、やりたい事が出来ないということに耐えられないし、やりたくない事をやらねばならない事にも、耐えられない。
そして、世の中の常識として、息子がやりたくない事をやらないままで、やりたい事だけやる、ということは無理なのが事実なのだが、その事実を息子に説明しても無駄で、やりたい事が出来なかったり、やりたくない事をやらされるなら、生きていけないし引きこもるしかない、とキレる。
担当医はこの状況を、「発達障害者は、そうなのだ。そういう風にしか在れないから障害者なのだ。だから守ってやらねばならないのだ」と理想を語る。
言うのは簡単だが、実現させるのは不可能だが、その不可能をやる事が、「障害者を守る」という事なのだそうだ。
最近私は、この「不可能を実現させる方法」を考えることが、以前ほど苦痛ではなくなっている。しんどいのはしんどいし、空しいし、自己肯定感がダダ下がりになるが、それでも、どこか、以前ほどの苦しさはない。希望と呼ぶのは絶対に違うが、ああこれが私の人生なのだなあと感じる。
わけの分からない事を書いてしまって、すみません。ではまた。
今日は最高気温、35度。早くも猛暑が来た模様。外出には気合がいる…