書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

批判。望ましい行動。合理的配慮(お題3つ)

今日は、拝読した記事について、勝手ながら、私がつれづれに思うところを書きます。記事は、別々の方のもので、3つ取り上げさせていただきます。
 
 1つ目の記事はこういう内容でした。短く引用させて頂きます。
誰かを批判する時、それは本当に良かれと思っての言動ではなく、

『自分の環境に満足してない』
『自分は我慢しているのに』
『本当は自分もそうしたい』

『単なるストレス発散』

こういう気持ちからの行動ではないか? 

  う~ん、そうかな?というのが、私の意見です。

 むしろ誰かから批判された時に、その批判を受け取らない人は往々にして、上記のような事を挙げる傾向にある気がします。

 これは個人的な見解ですが、私が面と向かって誰かを批判する理由は完全に一択で、「迷惑をかけられている」時です。迷惑さえかけられていなければ、その人が何をどうしようとどうぞご勝手に、と思います。

 例えば姉から、延々陰謀論界隈の長いLINEを頻繁に送られると、迷惑なので、「あなたのやっている事は迷惑なので止めてくれ」と言います。姉は激怒しまして、私のことを「真実が見えない頭お花畑な愚か者」と言ってきます。でもそれに対しては何も言い返しません。実質的な被害である「陰謀論LINEを送られる」を止めてもらえれば、それで良いからです。

 姉は、私が受け取り拒否する理由を、上記のように考えているようです。「自由に生きている私が羨ましいんだろう」とかよく言われますからね。

 誰かから批判された時に、自分自身がとるべき姿勢は、その批判が正当なものかどうかを冷静に吟味する事で、正当だと思うなら苦しくても受け取るべきでしょう。受け取りたくない人は、上記のように考えて、自己正当化を図るのかなと思います。

 また、批判が的外れであるならば、ただ受け取らねばいいだけで、わざわざ上記のように考えて、相手を侮辱する必要はありません。ただ、受け取らない、それで由です。と私は考えています。

 

  では2つ目の記事。こちらの内容も、短く引用させて頂きます。

 人間には、「やってはいけない」と思うと、むしろそれをやってしまうという心のシステムがある。だからその習性を逆手にとって、「やるべき事」を「やってはいけない」と思うようにすればよい。例えば、ジム通いを続けたいとしたら、「ジムに行ってはいけない」と思うようにする。勉強をやりたいなら、「勉強をやってはいけない」と思うようにする。そうすれば、自然と望ましい行動をとれるようになる。つまり、望ましい行動の逆張りをすれば、逆にその望ましい行動が自然にとれるようになる。

 これは民間カウンセラーさんの記事なのですが、なるほど理にかなってはいます。

 ただ、1つ問題があって、これを実現させるには、本当に心の底から「逆張り」を「真実」だと自分に思い込ませなくてはいけません。これって、可能でしょうか?

 口で「私はジムに行ってはいけない」と唱えるだけでは無意味で、本気で心底それが真実だと思い込まねば、この心の逆張りシステムは成立しません。

 でも、本心では「ジムに行くべき」と思っているのに、意識の力で「ジムに行ってはいけない」と思い込む事は無理です。できない事です。だとしたら、この逆張りシステムは実行不可能だと思います。

 こういう実行不可能な案を、便利な心理システムだとして、提唱されるカウンセラーさんが多いですが、害が大きいなと感じます。なぜなら、実行不可能なのに、実行できるように言うからです。真に受けた素直は人は、うまくいかないのは自分のせいだと苦しむでしょう。それが、そもそも実行不可能だとは思わずに。罪が深いですね。

 

 最後に3つ目の記事について。内容のかいつまんだ引用はこちらです。

 今の学校は、合理的配慮の言葉をもとに、障害児に合わせて無理に矯正をしないやり方が主流になっています。障害を理解してくれる環境にいる障害児は、周囲に合わせてもらうことが当たり前になっているかもしれません。
そういう障害児は、成人して障害を理解してくれない社会環境に置かれたら、ストレスで苦しむ事になるでしょう。合理的配慮は努力義務であり、強制力はないのですから、理解のない社会環境のほうが一般的だからです。
社会全体に合理的配慮の考え方が浸透しなければ、学生時代のギャップが広がるだけだと思います。
障害児親は、子供が成長すると共に、社会に適応できない恐怖感と戦いながら見守らなければならないのが辛いです。
 これも、なるほど一理ある、と感じながら拝読しました。
 ただ、1つ違和感があったのは、この方の言う「合理的配慮」は、少し本来のものとはズレているのではないか?という事です。
 本来の合理的配慮とは、学校であろうと社会であろうと、実行可能なもののみを指すと私は理解しています。
 実行可能だからこそ、「合理的」という枕詞がつくのです。
 実行不可能であれば、「非合理的」になります。つまり、何でもかんでも障害児の要求に答え、何でもかんでも障害児に合わせるという事です。これは、ある種の学校では実行可能でも、社会では実行不可能ですから、合理的とは言えません。
 
 この方のお子さんの学校で受けている配慮は、「非合理的配慮」なのだと類推します。そして、仰る通り、「非合理的配慮」を当たり前として育った障害児は、社会に出る事は不可能でしょう。でも、それはそのお子さんが、成人しても社会には出られないほど重い障害を負っているならば、非合理的配慮の環境で一生を過ごす事になりますから、問題はないはずです。
 でも、軽度発達障害児さんで、将来は社会に出て行かねばならないのであれば、学生のうちから、受ける配慮は「合理的なもの」のみにしてあげる事が、望ましいと私は思います。ただいたずらに、心配だ心配だ、と言うのではなく、今すぐから、受ける配慮を合理的配慮(社会環境でも受けられる配慮)に限定していくように、進めることが大事だと思います。
 何が、合理的配慮で、何が非合理的配慮なのか、を具体的に挙げていくと煩雑になりすぎますが、1つ例を挙げるなら、聴覚障害があり雑音や騒音が苦手な障害児に対して、イヤーマフの着用を認めるのは合理的配慮です。一方、雑音が騒音が苦手だからといって、教室から抜け出す事を許容するのは非合理的配慮です。
 ただ、障害の重さによっては、教室から抜け出す事を許容してあげねばならないお子さんもおられますが、それはすでに軽度ではないので、許容してあげるべきでしょう。
 
 長文失礼しました。いくつかの記事を拝読し、私なりに思うところがあったので、書かせて頂きました。
 そろそろ新学期が始まる時期ですが、どうぞ無理なくスタートできますように。ではまた~。