書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

自分の選択意識

 天気予報では雨の予報でしたが、今のところ晴れています。でも、風がものすごく強いです。雲の流れが速くて、動きが読みにくい日なのかもしれません。

 昨日、義母のことを悪く書いてしまったのですが、ああいうのも個性の範疇なのかなあと思います。私の個性とは合わない、という事なのでしょう。

 私が好きな個性というのは、何をする時も、「自分がしたいからする」という気持ちをきちんと表明している事なのです。

 「他人が求める事に応えているだけ」というのは、一見思いやりのように見えて、実際は「責任逃れ」に過ぎないと感じるんですね。

 何をする時も、「自分が選択した」という意識を、持っていたいなあと思っています。他人から頼まれて何かをしたという場合も、他人から勧められて何かをしたという場合も、それをする事を選択したのは自分である、と。

 奴隷じゃないんだから、この資本主義社会で生きている限り、労働者であったとしても、他人から鞭で殴られて何かを強制される、という事はないわけです。その労働をする事を、自分で選んでいるわけです。嫌なら逃げればいいのです。鞭で追いかけられる事はない。

 何かで聞いたか読んだかしたのですが。奴隷はたいして働かないのだそうです。鞭で叩かれない最低限しか働かない。働くモチベーションがないから。一方、労働者は、働いたら働いた分だけ自分の稼ぎになりますから、奴隷よりは働く事にモチベーションがありますから、奴隷よりは働くそうです。

 同じ人間であっても、奴隷という立場だと働けない。労働者という立場だと働ける。 

 だから、全てが自分の選択である、この仕事をする事も自分の選択であると思えば、やらされている体で生きるより、成果が上がりやすいと思います。

 

 私達に許されていない自由は、唯一「死」に関わる事だけで、例えば自殺は許されないというのが常識ですが、これも、割り切れば「許されている」と思う事は可能でしょう。一人一人の宗教観、死生観に寄りますね。

 よく、親に「生んでくれと頼んだわけじゃない。生まれて来たくなかった」と言う人がいますが、極論を言えば、本当にそう思うなら、死ねばいいんですね。死ぬ事も、選択はできるんだから。それでも、今生きているという事は、自分が「生きる」を選択したからなわけです。

 でもそれを認めずに、「自分は生まれたくなかった。死にたい」とグズグズ言いながら生き続けても、人生がよくなる事はないと思います。

 生きる事を自分が選択したんだと認識すれば、自分にとって良いと思える選択をし続ける事が可能です。

 どういう事かというと、自分に良いと思える選択は、自分にとって不都合だったり忍耐が必要だったり苦しかったりする事が多いからです。自分にとって悪い選択は、自分にとって都合がよく不必要で自分を甘やかしてくれます。

 それでも、自分にとって良い方を選択する。なぜなら生きる事を選択したのは自分だから。自分は自分に責任があるから。自分を良くする選択をし続ければ、人生はよくなっていく。

 少なくとも私はこう考えていて、だから何をする時も、「自分がこれを選んだんだ」と考えるように心がけています。たまにこう考えられない時もありますが、考えられない頻度は、年齢と共に下がって来た気がします。そして、皮肉な事に、考えられない頻度が下がると共に、生きやすくなっているのを感じます。

 自分が選んだという意識は、本来、自己責任意識であり、自分にとっては都合の悪い考え方です。他人に選ばされた、と思えば、自分が責任を取る必要はなくなり、自分にとって都合がいいわけです。だから、自分が選んだという意識を持ち続ける事は、生きづらくなりそうに思えますよね。しんどいだろうと。責任を他人に押し付けたほうがラクだもんね。

 でも実際は反対で、自分が選んだという意識を持って生き続けると、何故か生きやすくなるのです。だんだんと、ですが。理由は分かりません。やっぱり、人生が根本的に良くなっていくからでしょうか。

 

 まあ、今日はこんな感じです。ではまた~

 

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