書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

廃人ルーティンの存在理由

 YouTubeを見ていると、けっこう頻繁に「〇〇ルーティン」というのを目にします。「モーニングルーティン」「イブニングルーティン」「休日ルーティン」等々。いろんな方向からではありますが、小ぎれいで素敵なルーティンが紹介されています。枕詞に「OLの」とか「専業主婦の」とか「モデルの」とか「〇人子持ちの」とか、色々つきます。面白いのでなんとなく拝見しているのですが、最近ある事に気が付きました。

 こういう「○○ルーティン」を出している方というのは、たいていその真反対の「廃人ルーティン」を出しておられるという事。つまり、何もしない日、何もやる気が出ない日、ほぼ終日廃人で過ごす日、というのも紹介されている。

 一般よりも素敵なルーティンな日々を過ごされている方というのは、一方で、まるでそのバランスをとるかのごとく、一般よりも怠惰な、素敵要素ゼロというかむしろマイナスな日も過ごされている。

 どちらもYouTubeにアップされている時点で、どこかしら盛っているのは確かでしょうが、それにしても、両極端。

 何が言いたいかというと、とはいえ私は廃人な日を過ごした事はないなあ、と、ふと思ったわけなんです。どうしてなのか、と。

 YouTubeで、自らの素敵ルーティンを紹介されているという方は、それが彼等彼女らのお仕事なわけです。

 仕事である以上、無理もされるわけです。少なくとも、素のままの自分ではない、どこかしら頑張っておられる。仕事だから。

 だから、廃人になる日も必要となるわけで。

 専業主婦ルーティンを紹介されている方とて、それをYouTubeにアップした時点で、お仕事なわけで、どこかしら頑張っておられる。

 翻って我が身を鑑みるに、専業主婦だしYouTubeもやってない。つまり、素の自分以上の何かを頑張る必要がない。だから、廃人化する日も必要としない、という事なのだと思います。

 

 いや。なんか違うな。

 私だって、「頑張っている」事はある。でもそれは、「他人に見せる為に」頑張っているわけではない。自分で決めて自分でやって自分で評価し自分で完結。専業主婦の私の「頑張り」に、他人の目はほとんど反映されません。

 でも、一般的なお仕事の「頑張り」は、YouTubeも含め、基本「他人に見せる為」である。評価は他人がする。

 そこに、「廃人になるほど疲れる何か」が存在するのだと思われます。

 

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