書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

飯炊き女というコンプレックス

 私は専業主婦で、専業主婦であるという事に、納得して生きています。自分の身体が弱いという事は重々承知なので、もし、「社会でバリバリ活躍したい」という欲を追求していたら、早晩体を壊していたと思うからです。また、生まれた子供が障害児だったので、子供を良心的に育てつつ外でも働く、という事は、物理的に不可能だったからです。だから、自分が専業主婦であるという事に、満足はしていませんが、納得はしています。

 でも、専業主婦というのは、要は「飯炊き女」であり「掃除婦」であり「保母」であり「何でも屋」なわけで。私は、それらの総称としての「専業主婦」という言葉には、何とか納得はできていても、個々の名称には、敏感に反応し、いちいち落ち込んでしまいます。

 たとえば、バリバリのキャリアウーマンで働いておられる兼業主婦さんが、「私は飯炊き女になりたくない」とか「私は掃除婦じゃない」と言い放つのを聞くと、「まさにその飯炊き女で掃除婦である私の立場って、、」と落ち込むわけです。

 なぜ落ち込むかというと、私自身が、「飯炊き女」や「掃除婦」や「保母」を、低く見ているからです。そんなの我慢さえすれば誰でもできる、楽しくもワクワクもしないつまらない仕事、と思っているからです。誰でもできる仕事しかしていない自分が、悲しくなるからです。

 先日甥っ子(20代医師、既婚)が、我が家にご飯を食べに来て話したのですが。彼の家では、日々の食事の準備を、彼がしているそうなのです。奥様もフルタイム勤務なので、不思議ではないとはいえ、交代で作るのではなく、100%彼が作るのだそうです。買い物も彼。病院帰りにスーパーに寄るのだそうです。その事を彼は、まったく普通に語っていました。

 私が「ご飯作るの面倒じゃない?」と聞くと、「面倒だけど、食べないわけにはいかないし。奥さんはそういうの苦手なほうだし。外で食べるより自分で作ったほうが沢山食べれるし」と、普通に答えるのです。

 彼のように、外で仕事をした上で、家で「飯炊き男」をするのであれば、人はコンプレックスに陥らないのかもしれません。

 私のように、他に何もしていなくて、「飯炊き女」だけをしているから、自分が悲しくなるのでしょう、きっと。

 我が家での食事の後、甥っ子は「とっても美味しかったです。ご馳走様でした」と言って、帰って行きました。私は「有難う。いつでもまた来てね」と答えながら、心の中で、「私にはご飯作るぐらいしか出来ないから」と少し悲しく思いました。

 甥っ子は、私のことを「聡明な人だ」と過剰に褒めてくれるのですが、聡明だってなんだって、飯炊き女しかしてないわけですから。意味はないなあと思います。

 じゃあ、どんな風に生きればよかったのかと言えば、やはり、健康を優先し、生まれた子供を最優先して生きるしかなかったし、何度生まれ直しても、やはりこの道しかなかったと思うのです。どうしようもなかったのです。

 もっともっと翻って考えるなら、結婚しないという選択があり、私はそちらを選ぶべきだったのかもしれないと、ふと悔やむことがあります。悔やんでも詮無いので、深くは考えませんが。

 今は、今あるものを大事に、あまりクヨクヨせずに元気に生きようと思っています。コンプレックスは持ったままで。


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