書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

正解、不正解。

 「子育てには正解がないから、不正解もない」と言っておられる方を見ました。

 こういう事を言う方、時々います。「正解がないなら、不正解もない」という説。これおかしいと私は思うのです。

 世の中には、「正解は分からないけれど、『これは不正解だ』と分かること」はとても多いです。

 例えば、新型コロナウィルス。「絶対に感染しない方法」は、まだはっきりとは分かりません。正解はまだわかっていない。ウィルス自体が新しいものなので、まだ研究途中だからです。空気感染はしないとは言われているけれど、絶対にしないとまでは分かっていない。硬い物についたウィルスが、何時間生きているかもわかっていない。例えば、感染者が掴んだ電車の吊革を、6時間後に自分が掴んでしまったら、感染するかどうかは分からない。ウィルスは2時間で死ぬと分かっていれば、6時間後なら安全感染しないとハッキリわかるけれど。

 でも、ウィルスだから、「感染する可能性があるケース」は、はっきりと分かります。つまり不正解はハッキリしている。例えば感染者に濃厚接触することです。感染者に濃厚接触すると感染する可能性がある。だから、「絶対に感染しない方法」を考える場合、濃厚接触する事は不正解なのです。

 こんな風に、不正解には共通性があり、わりとハッキリしている。でも、正解は一つではなく個々のケースで様々である場合が多く、そういう意味で曖昧な場合が多いです。

 つまり。たいていの事象において、唯一無二の正解はないけれど、不正解はあるのです。

 子育てはその最たるもの。

 子供によって、最適な育て方は異なるのは確か。健常児の育て方と、発達障害児の育て方も異なります。強い子と弱い子の育て方も異なります。育てやすい子と育てにくい子の育て方も異なります。「子育て」という大きなくくりにおいて、「これが正解」と一つだけを挙げる事は不可能です。

 でも、不正解はハッキリしている。虐待は不正解。過干渉も不正解。育児放棄も不正解。こういう育て方をすると、子供の成長に害を与えるという事だけは、子供がどういう子であろうとも、共通してハッキリしています。健常児だろうが発達障害児だろうが、虐待して育てる事は不正解です。強い子だろうが弱い子だろうが、過干渉は不正解です。育てやすい子だろうが、育てにくい子だろうが、育児放棄は不正解です。

 

 「子育てに正解はないから、不正解もない」という説は、だから、間違っていると私は思います。

 このセリフを誰が言うか?によって、多少ニュアンスは変わってくるのですが、絶対にダメなのが、「不正解だとハッキリわかっている子育てをしている人」が言う事です。

 でも、「不正解だとハッキリわかっている子育てをしている人」こそ、このセリフを言いたがる。私が見た人も、このタイプの方でした。子育てカウンセラーさんですけども。

 

 子育てに限らず、正解こそわからないものの、不正解は分かっているという時、少なくともその不正解だけはしないようにする事が、正解に近づく事だと私は思います。

 正解がわからないなら不正解もない、と開き直るのは、ちょっと違うんじゃないかと思ったので、今日は書いてみました。

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