書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

幸せにも濃淡がある

 姉がはまっている自己啓発の一連のカウンセラーさんの記事は、自衛の為に目を通す事にしているのですが。違和感満載ではあるものの、大抵は読み流すのですが。時々、どうしても読み流せないものがあり、そういう時はここに引っ張ってきて一言書かせてもらって昇華しています。

 というわけで、今回もこの方の記事から。

誰かを幸せにしたい気持ち | カウンセラー星野えみ(えいみー)の「もう2度と『わたし』を一人にしない生き方を」

(上の記事より抜粋)人は、「誰かを幸せにしたい」と思いながら、同時に、その相手がまだ幸せじゃない証拠探しをしてる。「あの人はまだ完全に幸せじゃないんだ」って、心のどこかで思ってる。だって、そうすると、わたしの出る幕があるもんね。わたしの存在価値があるもんね。そうじゃないと、わたしが役に立てない。

 

 上の記事には、「誰かを幸せにしようと思う時は、その誰かが今は不幸だと思っているという事だから、失礼なのだ」という主旨のことが書いてあります。

 いや、、、どうしてそうなる?

 幸せにも濃淡があるでしょうに。「完璧な幸せ」から、「そこそこ幸せ」まで。そして、完璧に幸せなんて人はまあいないわけで、みんな「そこそこ」の部分に濃淡があるものの、たいていは幸せに生きているわけです。それなりに。

 で。そういう「そこそこ幸せ」な人を、更に少しだけ「より幸せ」にしてあげる為に、何かをしてあげたいと考える事が、そんなに悪いことなんだろうか。

 上のカウンセラーさんによると、「サイテー」なことなのだそうですが。

 上のカウンセラーさんによると、「誰かを幸せにしてあげたいと考える時、その誰かが『必ず不幸である』という前提に立っている」そうですが。その決めつけの根拠は何なのだろう。

 そこそこ幸せな人を、更に少し幸せにする、これが普通の考え方じゃないだろうか。

 誰かに何かをしてあげたいと考える時、その誰かの不幸を探したりしないし。

 たとえば、誰かにプレゼントをあげたい時、その誰かの不幸を探したりしない。その誰かが何を喜ぶかなあとか、何が好きだっけなあ、と考えて、その誰かが、自分のプレゼントで少しでも嬉しい気持ちになってくれたらいいなあと思う。今だってその誰かは幸せだろうけれど。私のプレゼントで更に少し幸せ感が積み重なればいいなあと思う。人に優しくしたいって、そういうことじゃないの?

 上のカウンセラーさんの言う「人に優しくしたい気持ちになる時、必ず相手の不幸を探しているのだ」という決めつけには、違和感しかなかったです。

 そして、こういうのを読む私の姉などは、「じゃあ、人に親切にするなんて本当はひどい事なんだ。もう止めよう」と短絡的に受け取るので困ります。ほんとうに。

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 は~。一気に書いてスッキリしました。今日は良いお天気。あたたかいそうで。八坂神社に御札を買いに行こうかな。ではでは~。