書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

人に助けてもらうという事

 今日は、ここ大阪は、とっても良いお天気で、ぽかぽかとあたたかいです。

 気になっていた年賀状を書き終え、出して来ました。年末に少し旅行に行く予定なので、TODOリストは控えめにしています。大掃除も半分は年明けに回しました。

 窓拭きなど単純作業をしていて、ふと頭に浮かんだ事を今日は書きます。

 人に助けてもらう、という事について、です。

 自分の問題を、自分の力で改善できないのであれば、誰かの助けを得なくてはいけないし、誰かの助けを得るのであれば、助けを得られるように行動しなくてはいけない。助けてもらう為には、恥もかかなきゃいけないし、頭も死ぬほど下げなきゃいけない。理不尽に叱られる事も責められる事も我慢しなきゃならない。

 人に助けてもらうには、そういう不都合を多々乗り越えた先で、初めて実現する可能性があるわけで(それだけやっても助けてもらえない事だってある)。

 自分の力で改善もできない、でも、恥もかきたくなければ、頭も下げたくない。叱られたくもなければ、責められたくもない。とにかく、自分は安全地帯でなんなら「善良な被害者」のままで、他人が自らの意思で勝手に自分を助けてくれるべきである、という考え方は、私は出来ないです。

 自己責任論をふりかざしたいわけではないし、自分一人でできない事は、積極的に人に助けを求めるべきだと思う。ただ、他人は自分を助ける義理などない、という事は、よくよく分かっていなければいけないと思うのです。助けてくれて当然、自分は助けてもらって当然、と考える人ほど、絶対に助けてなどもらえないから。

 世の中の不幸や不満の何パーセントかは(全部じゃない)、他人には自分を助ける義理などない、という事を、分かっていないから起こる事だと私は思います。被害者ぶって不満を言い続けていても、何も良い方向には変わらないし、死ぬまでその状態が続くだけだと思う。「自分を助けてくれない周囲が悪い、世間が悪い、社会が悪い」的な事を言う人が、私は全く理解できないのです。被害者面し続ける事で、一体何が変わるのだろう。何も変わらないどころか、いい加減にしろと周囲から辟易される危険は、韓国を見ればわかることです。

 自分の事で恐縮ですが、私が息子に支援をお願いする時は、まず死ぬほど情報を集めて、できる全ての手段を使って、論理的にその支援が必要である証明をできる限り揃えて、その上で、何百回も頭を下げます。恥もかきます。汗もかきます。たった一つの「助け」を得る為に、その為に私がしなければいけない努力は、その「助け」の何百倍にもなります。それでも、息子に「その人(組織)の助け」が必要ならば、やるしかないわけです。

 私が、障害児の親の立場をふりかざし、被害者ぶってみたところで、一体誰が親身になって助けてくれるでしょう。

 人は、私を助ける義理などない、という所からまずはスタートしていれば、助けてもらった時に自然と深く感謝ができます。あまり「感謝。感謝」と感謝の大切さを言い立てるのは嫌いなのですが、しないよりはしたほうがいい。それも、無理やりするよりは、自然に心からしたほうがいいです。

 助ける義理などない私達が、助け合う事ができるのは、助ける側の大きな努力の賜物だという事を、よくよく理解していたいと、障害児を育てる私は思っています。

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 綿の花がテーブルに。クリスマスっぽくて面白い。