書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

正論を言う事に関する世代感覚の差。

 母と電話で話していて、ああそうか、と思った事がありました。

 何かの話題の時、私が、「正論を言うのはいいけど、自分も出来ていないのに自分を棚上げにして、正論を言うのは、おかしいと思う」というような事を言ったところ。

 母は「上の立場の人間が、下の立場の人間に対して話すなら、そういう事はよくある事だ」というのです。

 つまり、上の立場の人間が下の立場の人間に言う時は、明らかに自分がそれを出来ていないにも関わらず、自分を棚上げにして、「〇〇すべき」と正論で説教するのが普通だと。自分も、舅にそうされてきて、口答えせずじっと聞いていたと。

 確かに、自分を棚上げにして、他人に正論で説教する人はいるし、相手が反論できないと分かっている関係なら、その傾向に拍車がかかるのはわかるけれど、普通、という程の事はないんじゃないか?と私は思いました。

 恥ずかしげもなく、そういう事をする人もいるけれど、しない人もいるよね。むしろ、しない人のほうが多いんじゃないか?と、私の実感としては思うのです。

 でも、母からすると、「普通だ」と。みんなそうだ、と。

 もしかしたら、母の世代や、母の上の世代の人達、つまり、明治や昭和一桁あたりの人達は、そうなのかもしれない。でも、今の人、感覚で言えば40代から下の世代は、そういう事が恥ずかしい事だ、という認識が強い人が多く、やたら正論で他人に説教するような人は、減って来ているのではないか、と思うのです。あくまでこれは、私の感覚ですが。

 私の世代(50代)は、中途半端というか、上の世代の「自分棚上げで正論振りかざし上等」な人達から散々説教くらってきていながら、下の世代の「それって恥ずかしいよね」な人達には何も言えない、という状況で、どちらかというと、下の世代に共感します。上の世代を反面教師として、「自分棚上げで正論振りかざす」みたいなのは恥ずかしい、という意識が、育っているので。

 でも、「自分が上からされたから、自分も下にする」という、自分がされた事に違和感を感じない人達も一定数いて、そういう人達は、私の世代でも、わりと平気で自分棚上げの説教を垂れ流しておられ(失礼)、下の人達から敬遠されていたりします。

 

 母と話していると、時々不思議だなあと思うことがあり、この時も、母は、舅からそれをされてとても嫌だったのに、自分がそれを私達にするのはいいのだ(何故なら、自分もされたから)、と考えていることが分かりました。もう80歳の母ですから、私もいちいち突っ込んだりしませんが。

 あと、母曰く。「自分棚上げて正論を言うのも、他人相手なら自慢で終るけれど、身内だとよくなって欲しいという気持ちがあるからこそ、説教になるのだ」と言っていました。つまり、正論で説教するのは良い事だ、それが自分棚上げであっても良いのだ、身内に良くなって欲しいという「良かれと思って」の気持ちがあるからだ、という理屈です。

 そう言われたらそうかもな、と思うものの。

 正論というのは、万人が分かっていることですからねえ。。。

 わざわざ言われなくても分かっているわけで。

 分かっていても、実行が困難だから、出来ないわけです、みんな。

 だから、自分が実行できたのなら、人にも正論で「やれ」と言う権利があるけれど、自分も出来ない事なら、そもそも人間には出来ない事なのかもしれないじゃないですか。いや、やった方がいい事は、万人が分かっているけれど、実際問題やれない、という事は世の中に沢山あるわけです。

 例えば、「死ぬ気で勉強しろ。自分の将来の為だ」と言われても、出来ないじゃないですか。いや、言った本人が死ぬ気で勉強して東大を主席で卒業して官僚にでもなって今現在日本を陰で支えている、とかいうなら分かりますが、本人は普通の専業主婦で、自分自身学生時代さして真面目に勉強などしなかった人だったりすると、説得力がないわけで。そもそもまだ10代の世の中の怖さなど何も知らない子が「将来の為に」「死ぬ気で勉強する」等という事が、できるわけないわけです。やったほうがいいことは分かっていますが、実際問題、やれないのが普通。

 そういう事って、本当に沢山あって、実際にやれないけどやったほうがいい事を、やってきていない人から、「あなたの為を思って言うのだけれど、やりなさい」と正論で言われても、しらけるだけだよなあと思います。

 正論を言うなら、せめて自分が実行できた事に限るべき、というのが私の感覚です。

f:id:oinor-i:20191210182240j:plain