書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

自分100%、相手0%で生まれて来る。

 今日は、発達障害関連の記事を書きます。

 愛読させて頂いているスカイさんの新しいブログ記事を拝読して、なるほど!と思ったので、勝手ながら引用させて頂きます。コチラです↓

親の希望を叶える「道具」にされたくはない子。子育てする親の用心。 | スカイのブログ

 上の記事内より、勝手ながら一部抜粋させて頂きます(分かりやすさの為、一部省略・書き換えしています)。

 大人は「大勢の定型の人が平和に過ごすための社会ルールの大切さ」を知っています。多くの人が妥協し、自分の意思と社会のルールを50%、50%の妥協の中でやり過ごしています。自分を捨てず、しかし相手も受け入れる、それが対等であるような社会になっています。一方で、発達凸凹のある人達は極端に言うと、自分100%、相手は自分と同じ価値観・思考回路を持っていると前提して生まれてきます。相手の意思や希望は、0%となっています。自閉している自分の100%の世界の中では、現実社会は0%です。ですから、育てる親が何もしなければ、社会不適合を起こすのは当然です。 

 (なので、発達障害児を育てる場合)、子どもに、「親の自分と、子のあなたは違う人間である」ということを常々、生活の中で理解させるように心がけなければいけません。例えば、お皿を分ける、持ち物を分別する、兄弟姉妹でシェアする物を最小限にし、必ず自他の区別がつけられるように生活環境を整える必要があります。 

 例えばおもちゃは兄弟でそれぞれ、自分の物を持つ、というところからスタートすれば、成長して「貸し借り」ができるようになるのが早いと感じます。逆に、「兄弟姉妹で一つのおもちゃ」をシェアすると、いつまでも喧嘩して「自分が100%」の自閉の世界で自他の境界線なく、理解されない!自分の邪魔ばかりする!自分が嫌いだからだ!と認知をゆがめていきます。そこには「自分と他人の世界」がありません。それを理解するチャンスが失われたまま、「自他の違い」を理解しない段階で「物をシェアする」という難しい社会性を求められるからです。おもちゃ一つを与える方法を間違っただけで、こんな違いが起きる、子どもが怒りに取り付かれひねてしまう、という大惨事が起きるのが私達、発達障害親族のリアルケースです。 

 大事だと思うのが、「自分というものを大事にし、相手というものも大事にし、そして大事にされる」というフィフティーフィフティーの経験と、その努力があるからこそ得られる、他人からの尊重や敬意、好意です。自分の自閉の世界だけを100%、受け入れてもらっただけでは、社会で生きていくのが苦しく、また軽視されたり、理想に反して失敗したと感じることが多くなり、辛い将来を送ります。自分から学ぶことが難しい特性の子として、家族が「自分とは違う」と知る小さな出来事を繰り返し経験する事、それが外で生きやすくしてくれます。多くの人のタイプを「パターン」として知っていく、知識がたまるほど、外に出たとき、学校で、社会でサバイバルしやすくなります。相手を尊重することが、自分が尊重されることにつながると、そこで初めて自分50%・他人50%の比重を保つ努力をする良さも体験もします。

 

 スカイさんが仰る通り、発達障害児は自分100%、相手0%だなあという事は、私も常々感じていました。それを単純に「我儘」と切り捨てるのではなく、あえて、家族や兄弟と、その子の持ち物や空間をシェアしない(自分だけの持ち物・空間を与える)事で、自他の区別を子供に身に着けさせるという事が、有効なのだと分かりました。

 そうですね。確かに、そう。

 協調性の無い子だからと、何でもやたら人とシェアさせて強調性を伸ばそうとしがちですが、逆、なのですね。

 また、親が発達障害者の場合も、自分100%、相手0%になりがちで、それが子育てにも反映されると、子供は親の希望を叶える「道具」になってしまう。親自身はそうと気が付かず、そうしてしまう。そのことにより、子供は、親を恨むようになってしまう。これについてのスカイさんの記述も、一部抜粋させて頂きます↓。

 「こうなってほしい」「こう育ってほしい」「こんな風に言動してほしい」という親の希望をストレートに伝えただけでは、子供側には逆効果になります。自分が子供であった時、「自分が100%、全員がそのはずだと信じていた自閉世界」で、なぜ自分だけが人と同じことができないのか「自分だけが、なぜかわからないけれど、人と違う結果を引き起こし、たくさんのことが失敗に終わる」というある意味正解で、ある意味間違っている、けれど直面する現実を受け止められず大混乱する乳幼児・児童期の時期、(その大混乱の中で子供に)はっきりと確実に見えるのは、命令してくる親のこと、親の言葉だけ、だからです。それはとても認知をゆがめやすい大きな誤解の原因です。 

 だからこそ、「なぜ親はそうしたことを言うのか」の理由や根拠を、非定型の子に視覚的に、絵で、または声で、言葉でつくして説明したならば、いつの日か、その理由の説明の絵や言葉の断片が、パズルのように一致するときがやってきて、「ああ!」と突然、理解できる瞬間がやってきます。この理由や根拠、というものが説明されないとわからない。それが「暗黙の了解」で理解しあえる定型の人々との違いであり、逆に言うと、その定型の人間が無意識に情報を処理し、無意識に社会性のある価値観を会得していく過程こそが高度であり、非定型の人間はその機能を起動させずに生まれてきたけれど、手動に切り替えて、経験から学んでいくことはできるわけです。 

 子供がもし、言葉や態度のはしばしに、自分は尊重されていない、自分は理解されていない、親はただただ、親がやりたいこと・親が信じること・親の希望を叶えることを、子どもに願っているだけで、親は子を自分のコピーにしたいだけなのだ、自分は親の思う通りにふるまえと指示され「道具にされている」と感じているとしたら、それは、私達の親側の発達凸凹の自閉特性が全開になり、目の前の子供を他人であると認識できず、自分を100%、子どもを0%にしているのかもしれない、という事です。これに気づいたら、大人同士でも指摘します。夫婦でも指摘します。それが最も、私達が子育てする中で、重要な気づきだからです。

  

 毎回、スカイさんの記事は読み応えがあるのですが、今回もまた、学ぶべき点が盛りだくさんでしたので、自分のブログに引っ張ってきて、残させて頂きました。

 

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