書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

人類は一度滅亡したほうがいいと思う時がある

 以前は、なんとも言えずしんどいなあと思う時があったのですが、最近は減りました。他人に期待しなくなったからです。

 世の中には色んな価値観がある、でも、絶対に駄目な事もある、と私は思うのですが、それすら通じない人達がいる。そして、通じない人達が誰なのか、私には分からない。

 だからもう、最初から誰に対しても期待しない。裏切られても傷つかずにすむように。そう心がけるようになってから、しんどい思いはしなくなりました。

 こんな風に書くと、「いや、私はちゃんとしてる。私は人を裏切ったりしない。大丈夫」とみんな思うと思うのです。私自身も、私はちゃんとしていると思っていますから。

 でも、それすら実は確かではないと、最近は思います。私自身の認知が、もしかしたら歪んでいるのでは?と。認知が歪んでいたら、自分はちゃんとしているつもりでも、滅茶苦茶な事をしている可能性はありますから。

 認知の歪みについては、過去記事に書きました↓が、これは極端な例で、本当は誰しもが多少は歪んでいるわけです。その歪みの程度がグラデーションになっている。だから私も当然、多少なりとも認知は歪んでいるのです。  

oinor-i.hatenablog.com

  

 時々、なんだか絶望的な気持ちになることがあります。

 たとえば、東須磨小学校の加害教師の謝罪文を読んだ時とか。特に、40代女性教師の謝罪文のひどさ↓。

「子どもたちに対しては、こんな形になって申し訳ないです。子どもたちを精いっぱい愛してきたつもりですが、他の職員を傷つけることになり、子どもたちの前に出られなくなり、申し訳ありません。私の行動で、迷惑をかけてしまったことに対して、本当に申し訳ないと思っています。

 被害教員に対しては、ただ申し訳ないというしかありません。被害教員のご家族に画像を見せられ、入院までしている事実と、苦しんでいる事実を知りました。本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています」

 

 完全に他人事で、何に対して謝罪すべきで、何に対して反省すべきなのか、全く分かっていない。生徒の前に出れなくなった事を謝罪してどうするの? まずは、カレーを被害者教師の目にこすりつけた事を謝りなさいな。被害者が入院している事を気の毒がってどうするの? 入院させたのは誰ですか? まるで天災による不幸があったように他人ごとだけど、被害者が入院したのは他でもないあなたの暴力のせいなのですよ、と言いたい。自分の行動で人を病に陥れたくせに、入院してるなんてかわいそうだなんて、どうして思えるのだろうか。

 認知が歪んでいるからとしか、思えない。

 「ケーキの切れない非行少年たち」で書かれているように、認知の歪んでいる非行少年たちは、殺人を犯しても「自分は優しい人間」だと思い込んでいるそう。この40代女性教師が、同僚を入院に追い込むまでに暴力をふるっておいて「私は子供思いの良い教師」と思い込んでいてもおかしくありません。

 だから、こういう人には、何を言っても通じない。百万の言葉を使って説明しても、理解されない。結局は、客観的事実を、正しく認識する事が不可能なのです。こういう人は。客観的事実が左の絵で、この人の頭の中の認識は右の絵なのです。

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(「ケーキの切れない非行少年たち」よりお借りしました)

 

 この女性教師だけでなく、私達人類すべてが、多少とも認知が歪んでいると私は日々、痛感しています。東京オリンピックの担当者の方々。今になってマラソンを札幌で? 本気ですか? だったらどうして最初からそうしなかったの? 夏の東京を見越して調整してきた選手達や、すでにホテルを予約してしまった観客達はどうしたら?札幌に移すなら移すで、迷惑をかけた全ての人に責任者が謝罪し、ホテル解約などの費用は責任者が負担すべきです。道理を通すなら、そうなります。でも間違いなく責任なんかとらないでしょう。

 

 この地球にアメーバが生れ、少しづつ進化して人類になったわけですが。進化の過程で、認知の歪みはどうしようもなく発生したのだと思われます。頭脳を進化させる時の副作用として、認知が歪んでしまったのでしょう。アメーバが仲間をいじめますか。

 

 こんな風に書いていて、私が暗い気分になっているわけではありません。こういう風に、割り切れない物事を、なんとか自分なりに整理するのは、むしろ清々しいと思うほうなので。理不尽な事に対して怒ったり悩んだりするよりは、諦めるほうが気持ちがラクです。悲しいことは悲しいですが。私がこういう風になったのは、息子が障害児だと分かってからです。「なぜ、私の子供が障害児なの?」と怒ってみても仕方ないわけで。ああそうなのか、と諦めて受け入れるしかない。そして自分ができる精一杯をやっていくしかない。

 この世界にあふれている、様々な理不尽さ、矛盾、腑に落ちないこと、すべて、怒ってみたところで仕方ないのです。諦めるしかない。私達人類は、そういう生き物なのです。

 今、小さいお子様をお持ちの方には本当に申し訳ないですが、私は息子が、もうすぐ「学校」という場を卒業するのが嬉しいのです。人の認知の歪みで、一番被害を受けるのが「学校」という場です。子供は非力であり、また、そういう非力な子供を人質に取られている親はもっと非力です。私は、できれば息子には子供を作ってほしくない(障害云々は別にして、もう「学校」という所に大事な家族を通わせる不幸は経験したくない。息子には言いませんが)。

 大人の世界は、ある程度お金でまわるので、お金さえあれば、うまく生きぬく事ができます。

 被害者教師の方も、経済的に許せば、公立小学校を辞めて、私立学校や、なんなら私塾などに転職されるという方法を、選択できたでしょう。職の安定や年金を考えて、公立学校から逃げられなかったのだろうと思いました(事実は分かりません。被害者教師の方にも、何らかの認知の歪みがあり、転職するという方法がどうしても選択できなかったのかもしれません)。

 世の中の全ての人は、大なり小なり認知が歪んでいる。私自身ですら。

 だから、理不尽なこと、わけのわからない事が沢山起こる。

 すべき事は、今自分がやるべき事を淡々とやるだけ。悪い状況なら、言うべき相手に苦情を申し立て、それが通らなければ、その場から去る。そういう自由を得られるように、ある程度の経済的資本を持つ。

 大人ならこれができるけれど、子供には無理です。子供には自由はありません。ある程度決められたルートを辿らなければ、社会人になれないように出来ています。

 だから、私はもう、息子には子供を作らないでほしい。本人には決して言いませんが。そして、私も、息子も、幸せとか不幸とかそういう事は考えずに、淡々と生きて、この世を卒業したいです。その前に小惑星が地球にぶつかるとかなんとかで、人類が滅亡するなら、それはそれで構わないです。そのほうがいいんじゃないかとすら思う。

 本当に。東須磨小学校の件の報道が、耳に入って来るたびに絶望します。加害者教師もひどいけれど、同僚教師が沢山いたはずで、みんなそこでたちの悪い暴力が日常的に行われているのを知っていて、何もしなかった事。それのほうがひどい気もする。なぜひどいかというと、彼等同僚教師は、何も言えなかったのだろうから。言えば自分の立場が悪くなるから。正義より保身を取ったのです。

 同僚教師の方々は、もしかしたら、この台風被害に寄付を行ったり、京都アニメーション会社前に、悼みの花を供えたかもしれません。彼等は自分自身を「優しい人間」だと思っているでしょう。でも、同時に、イジメに苦しんでいる同僚については無視したのです。

 認知が歪んでいる。

 また、状況を把握していながら何も手を打たなかった神戸市教育委員会の人達のほうが、さらにひどいとも思えます。彼等が守ったのは、自分の身ですらないのですから。ただ単に、面倒だから手を打たなかっただけでしょう。

 大阪府の吉村知事が、「神戸市教育委員会は解体させるべきだ。法律上できないが」と語っていて、その通りだと思いました。やるべき事をやらなかった組織は、解体させる法律を作るべきです。そこまで負荷をかけないと、人は自分の歪んだ認知で動いてしまうから、世の中から不合理も理不尽も、それによる不幸もなくなりません。

 学校というのはすでに、今、東須磨と同じ状況下にあるでしょう。東須磨が特別なのではありません。そして、学校だけでなく、おそらく多くの「職場」が、そういう状況下にあるのでしょう。

 私なら、そういう状況下に置かれたら、言うべき事を言って、それでクビになるなら上等。そういう職場はすぐに辞めて、少しでもマシな場所に移ると思います。

 ですが、私がそう思えるのは、私に多少なりとも財産があるからです。奨学金や何かで余裕がない人には、職場を移るという選択は、難しいかもしれません。

 人のことは分からないですが。

 私自身も認知が歪んでいるかもしれしれないけれど、それでも、できる限りまっすぐに、やるべき事から逃げず、生きていきたいと改めて思います。自分の魂を守るには、それしかできないです。

 神様は、人間を守ってきて下さったわけですが、神様も、もうこの「人類」はどうしようもない、と判断されたら、一度きれいさっぱり、人類を滅亡させてしまうかもしれません。それは身から出たさびで、しょうがないです。いや、そのほうがいいかもしれません。悲観的になっているのではなく、普通に考えて、そう思います。