書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「何故生きるのか?」という問い。

 ある方のブログ記事に、下の本が紹介されていました。その本自体はまだ読んでいないのですが(そして多分読まないと思うのですが)、そのブログ記事に感銘を受けました(その本を読まない理由は、後で書きます)。
 
 時々、人生に苦しんだ時、迷った時、人は「私の生きる意味は何?」と天に向かって尋ねてしまいます。「なぜ私は生まれてきたの?なぜ生きなきゃいけないの?」と。
 でも、本当は、逆なのだと、この本の著者は語っているそうです。 
夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 逆に、人生とは、生きるとは、天から常に、我々が問われ続けているのだ、という事。

 与えられた運命に、苦しみに、出来事に対して、「お前はどう生きるのか?」と、逆に私達が、天から問われ続けているのだと。

 それは状況、瞬間ごとに毎回問われ、私たちはその都度答えを出していく。それが人生であり、生きる意味なのだという事。
 だから。
 手ごたえのある充実した日々や、安逸な環境や、美や芸術や自然を存分に味わう機会に恵まれた人生だけに、意味があるのではない。仕事に真価を発揮する機会も、体験したり経験したりする機会も、皆無な人生にも、生きる意味はある。楽しく幸せな事だけに生きる意味があるのではない。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだ。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は完全なものになる。
 そんな風に、先の本には書いてあるそうです。
 
 深く納得しました。
 
 この本の著者は、ナチスドイツ時代にアウシュヴィッツ収容所で強制労働させられたユダヤ人の生き残りの方です。苦しい日々の先に死が待っている中、今生きていることに何の意味があるのだろうか?という問いに、「生き延びて幸せになる」ことだけが意味のあることではない、と彼は答えます。与えられた環境の中でどのように振る舞い、どう生き、苦しみ、学び、考え、自分なりの正解を見つけそして死んでいくか。そこまで全てがワンセットであり、そこにこそ意味があると。客観的に見た状況的ハッピーだけが、唯一の正解でも意味のある生でもない、と。
 
 結局のところ、彼はその信念のもとに収容所を生き延び、この本を著したのです。
 
 私がこの本を読まないであろう理由は、収容所の辛い場面が刻銘に描かれているからです。そういうものを、読むのが本当に苦手なので、多分読まないだろうなあと思います。
 でも、書かれている内容には、本当に胸を打たれたし、苦手な場面がいかに多かろうと、やはり本を手にとってみたい気もしています。

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  私は今まで、自分自身を幸せにする事に、生きる指針を得ようとして来ました。でも、そういう方向に考えて生きて来て、何か違う、おかしい、という腑に落ちなさも感じてきました。幸せは欲望と区別がつかず、追及しても限りがないからです。これが私の幸せだと思っていたその場所に到達しても、幸せはスッと先に逃げてしまう。

 「自分自身を幸せにする事」が、生きる目的ではない、という事。
 私達は、「自分自身を幸せにする為に生まれた」のではない、という事。
 私達が生きている意味とは、「与えられた環境の中で、苦しみ、学び、考え、自分なりの正解を見つける為」である、という事。
 言われてみて初めて、ああそうなのか、そうなのだ、と納得できました。ここには何の矛盾も腑に落ちなさもありません。その通りだと感じました。
 
 この著者が、過酷な収容所を生き延びられたのは、この本を書く為、彼がアウシュヴィッツで気づいた真実を、広く知らしめる為なのだと思いました。古典と言われる本ですが、今だに読み継がれている理由が分かります。