書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「助けて」と言えば、助かるのか。

 引き続き、最近起こった嫌な事件について、書いています。苦手な方はここで終わられて下さい。


 今日は、元農水事務次官(76歳)が息子(44歳)を殺した事件、について書きます。

 この事件について、「助けて、と言えばよかったのに」「周囲の人に、ヘルプを出せば良かったのに」「何もかも、家庭内でなんとかしようとしたのが間違い」というような意見をよく聞きます。

 いやいや。そんなに簡単なことじゃないでしょう。と私は思います。

 熊澤氏は長年省庁の世界にいて、トップにまで登りつめた人ですから、日本の行政の隅から隅まで十分にご存じだったと思います。日本の福祉が、どこまで国民を助ける事ができるのか、そのシビアな一線を、ハッキリと認識されていたと思います。

 そして、自分のケースは、日本の福祉に頼っても、助けてもらえないケースだと、ハッキリと見切ったのだと思われます。

 だから、親としての責任として、息子さんを殺すしかなかったのだと思います。

 「助けて」と言って、助けてもらえるのなら、とっくにそうしていたと思います。助けて、と言うのが恥ずかしいから、家の恥をさらしたくないから、そんな浅はかな理由で、息子さんを殺したわけではないと私は思います。なぜなら、殺した後に、すぐに警察に連絡し、自分が息子を殺したと告げているからです。日本中に大きなニュースとして取り上げられると分かっていて、自首している。「我が家の恥をさらしたくない」というような気持ちが、少しでもあれば、そんな事はしないでしょう。

 

 難しい子供が生まれる。 子育てに失敗する。そういう子供が成長し、難しい人間になってしまう。誰にでも起こりうる事です。

 そういった場合、親として、どこまでどう責任をとればいいのか。

 私だって、難しい子供を抱えているので、まったくもって、他人ごとではありません。

 我が家の場合は、息子が2歳から病院にかかり、専門家に相談しながら、私に出来うる限りの力で、丁寧に育ててきました。

 それこそ、必要な時に、適切な形で、数限りない「助けて」を、言い続けてきました。「助けて」と言って、すんなり助けてもらえるわけはありません。助ける必要はない、と判断される場合もあれば、助ける事が逆に子供の成長を阻害するから助けない、と判断される場合もあります。また、助ける必要は認めても(相手に)助ける能力がないので助けられない、という場合も多いです。

 助けて、と言えば救われるような、そんな簡単な話ではないのです。もちろん、そんな中で、手を差し伸べて下さった方、助けて下さった方には感謝以外の言葉はありません。


 私は、息子が2歳から、ずっと必要な「助けて」を、周囲に言い続けてきました。それでも、息子が将来、どうしようもなく問題を抱えてしまわない、という保障はありません。問題を抱えた息子が、他害しない、という保証もありません。

 そういう危険を察知した時、私は親として、どうしたらいいのか。

 おそらく、私も、熊澤氏と同様、息子を殺して自分も死ぬでしょう。それしか、親としての責任をとる方法が無いからです。

 万が一にもそういう事態にならないように、今まで一生懸命子育てしてきたし、今も、そしてこれからも、できる限りの手を打って、考えうる限りの人に相談し、手抜きなしにやれる限りのことを、やっていこうと思っています。

 それでも、私が、第二の熊澤氏にならない、という保障はどこにもありません。それが、この国の現実です。「助けて」と言えばすむような、そんな簡単な話ではない、と私は思います。

 できる事は、今を一生懸命生きる、誤魔化さずに生きる、それだけです。

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