書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

今日もあたたか。ブログについてつらつら。

 今日も日差しがあたたかいですね。今週は一気に3月並みの気温になるのだとか。気が付くと2月も半ばを過ぎ、とうとう冬も終わりでしょうか。今年はあまり寒く無くて助かりました。

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 今朝、テレビを観ていて「SNSでの情報発信というのは、あれは情報発信ではなくて、承認欲求なのだ」ということをどなたかが言っていました。

 なるほどな、と納得。

 SNSで何かを発信するという事は、「役に立つ情報発信をしているこの私を認めて」という欲求が、根本にあるのでしょう。勿論、私にも。

 まあ、なんらかの広告収入を貼っている方なら、おこづかい稼ぎという目的も別にあるでしょうが(それが悪いわけではなく、承認欲求以外に、おこづかい稼ぎという目的もある、という事)。

 そう考えた時に、ああなるほど、と腑に落ちた件があり、今日はそこを書いてみます。

 

 私には、苦手なブログがありまして、それは「役に立つ情報発信」をメインに書かれたブログなのです。

 役に立つ情報発信という、なんら問題になるべきことも見られないブログが、どうして私はこんなに苦手なのだろう、読んだら変な気持ちになるのだろう、と疑問に思っておりまして、その理由が分かった気がしたのです。

 つまり。「情報発信」という体の裏にほの見える「承認欲求」が苦手だったのだなあと。承認欲求が露悪的に前面に出されているよりも(それはそれでしんどかったりしますが)、情報発信という立派なものに隠されているほうが、より変な気持ちになってしまうのです。

    とはいえ、情報発信ブログでも、愛読させて頂いているものも沢山あり、一概に情報発信だから苦手、と感じるわけでもないので。

    多分私は、承認欲求が徹底して隠されていたり、逆に必要以上に前面に出されていると、苦手に感じるのだと思います。きっと、そういうのは全く気にならないという方もおられるのでしょう。


 ブログとは、どう書けばいいのだろうか、決まりなんてないにも関わらず、考えてしまいます。きっと、変に露悪的にならず、かといって立派な体裁の裏に気持ちを隠さず、自然体でそのままを書くのが一番いいのだろうと、読み手である時の私は思い、書き手になった時には、できるだけそうしようと思うのです。

 もちろんどう書こうが、完璧に個人の自由でありまして。私のような神経質な人間の感覚など、特殊な意見である事は間違いありません。

 

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