書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

強い子弱い子

 子供には、強い子と弱い子がいるなあと思います。親族にも強い子もいれば弱い子もいます。

 強い子というのは、どんな感じかというと、幼いうちから自立的で、しっかりしていて、落ち着いている。頭もよく性格もよく友達も多く、成長すれば安定的なやりがいのある仕事につき、本人に合う異性とも巡り会う。親族にそういう子が何人かいます。

 一方、弱い子というのは、その真逆で。自立が遅く、いつまでたっても弱く頼りなく、不安気で。人間関係も上手に作れず、成長した先の未来も見えずらい。まあ、我が子がまさにそうなのですが。

 強い子の親に聞くと、みんな異口同音に「子育てなんかしていない」と言います。子供が勝手に育って行っただけだ、と。強い子は、親の手をそれほど借りないので、小さいうちから自分の頭で考えて経験を沢山積んで成長していきます。よって、もともと強い子が、益々強くなっていきます。

 一方、弱い子の親に聞くと、やはり異口同音に「子育てがしんどい。いつまでたっても手がかかる」と言います。私もある意味では、そう思っています。弱い子は、ずっと親がかりで育ち、自分で考える経験を積まないので、いつまでも頼りない。

 

 ここで一つの意見があるかもしれません。

 つまり、弱い子を強い子並みに突き放して育てたらよいのではないか?という意見です。つまり、親がいつまでも面倒見過ぎているから(親が過保護だから)、普通の子まで弱くなってしまうのではないか?という意見です。

 それについては、そういう事が絶対にない、とは私は言えませんが、ケースとしては少ないのではないか?と私は思います。

 たいていの親は、子供にできるだけ早く自立して欲しいものです。早く、自分で何でもやって欲しい。早く、親の助けを求めなくなって欲しい。そう願わない親はいないです。子供の自立をじりじりとした思いで待っているのが、親というものです。

 なので、そういう「私達親というもの」が、すでに自立している子供に対して、いつまでも世話をやくはずがありません。子供が自立するやいなや、さっさと自分自身のことに心や時間を割き始めるのが親というものです。

 いや~。いつまでも子供の面倒を見ている親はいるよ、という人がいるかもしれませんが。それは「子供の面倒を見ている」のではないと思います。「過干渉」です。そういう親は、子供の面倒を見てあげるのではなく、子供に指図し、子供を見張り、子供を管理しているだけです。指図し見張り管理する事は、簡単でラクな子育てです。大変なのは、子供に必要な手助けをしてやることです。

 「子供に必要な手助け」をしている親は、子供が手助けを必要としない分野に関しては、速やかに手を引きます。子供が手助けを必要としている分野のみに、手助けをします。だから過干渉にはなりません。

 

 話が脱線しましたが、私がこの記事で何が言いたいかというと、こういう事です。

 世の中には、歴然と、「強い子(人)」と「弱い子(人)」が存在している、という事です。安易に二元論に走るのはよくないですし、勿論、中間の子も途切れなくいるわけですが、両端が当然ながらあるわけです。

 で。

 大事なのは、そのことをきちんと理解する事だと思います。

 別の言い方をすれば、「自分の分を知る」という事です。弱いならば、弱いなりに生きる、という事。強い人の真似をしない、羨まない、という事。弱い自分で何が出来るかを考え、それをやるという事。

 親族を見ても、強い人は自然と、人の上に置かれるし、多くをまとめ、多くを一気に助けていくような仕事に自然と引っ張り上げられます。本人がそれを望まなくても、周囲がそこに持っていきます。沢山の経験を積み自分の頭で正しく考えられる本当の意味で強い人が、人の上に立ってくれないと、世の中はうまく回らないですから、それは自然で当然の事だと思います。

 弱い人が、人の上に立ってしまったら、大変な事になります。不安や優柔不断から判断を間違えタイミングを逃し、多くの人を不幸にするでしょう。

 

 強い人は強い人で生きる場所があり、弱い人は弱い人で生きる場所がある。それでいいのだと思います。それは不公平とかそういう事ではないし、チャレンジしていないとか諦めているとか、そういう事でもありません。人は生まれながらに明らかに違い、それぞれがその違いに沿った場所で生きればいいのだと私は思います。

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 阪急百貨店のウィンドウ。クリスマスでかわいい。