書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

最後まで書ききる事の大切さ

 3週間程前に書いた記事が、途中で尻切れトンボになってしまったので、とりあえずそのまま下書きにしていたのですが。今日久しぶりに読み返してみて、考えた事があるので、今日はその事を書きます。

 まずは、3週間前に書いた尻切れトンボの記事(ほぼ愚痴)です。

(ここから)↓↓↓↓

 何をしゃかりきになって、一生懸命やっているのかなーと、時々空しくなる事があります。疲れ切るほど一生懸命に、どうしてやっているのだ私は。

 そうなのです。

 一生懸命やればどうしたって疲れ切るのです。だから、ちょっとした不満に耐えられない自分に驚いたりします。

 スーパーのレジで、レジ係りの人に、意味の分からない理不尽な采配をされたりすると、「はあ?」と怒りが湧いてきて、そんな自分に、自分で驚く。こんな事ぐらいでイライラするなんて、私、一体どうしちゃったの?

 そして、ああ私、疲れ切っているのだなあ、と気づくのです。

 何もせずに、一日ソファーに座っていたら、効率よく物事を処理できない人がいても、無駄に時間かかっても、上からな感じで何を言われても、別にどうでもいいと思うでしょう。

 どうでもいい。好きにして、と。

 毎日毎日一生懸命だから、自分の時間は貴重で、それを無駄にされたら腹が立ってしまうわけで。毎日自分自身が、自分の時間を無駄にぼーっとしていたら、人に無駄にされたって、別に何とも思わないだろうに。

 時々、そういう境地になりたいなと思う事がある。あります。

 心を麻痺させて、何も感じなくさせて、腹もたたない、イライラもしない、そんな境地になる為に、自分の人生を捨てたいと思う事があります。生きるのをやめる、という事ではなく、一生懸命生きるのは、やめる、という事。

 どうでもいい、好きにして、と。もうどうでもいい。私はもう、どんな状況に対しても腹をたてないし、文句も言わないし、ただひたすら流されるだけでいい。最後は落ちる所まで落ちて消えていくのでいい。それでいい。

 究極まで疲れた時は、そんな風に思ってしまいます。頑張ったからといって希望が叶うわけはないし、自分の希望が叶わなかったからといっていちいち落ち込んでいるなんて、私はおかしいんじゃないか、と思う。でも、落ち込まない為にはどうしたらいいのか、分からない。

 一生懸命やろうとすると、周囲から疎まれるし、衝突もするし、文句も言わなければならない。一生懸命生きるという事は、自己中に生きる事と、なんと近いこと。

 自己中に生きている自分は、とても嫌いです。自己中に生きるのを止めるには、人生を放棄すればいいんじゃないかと、思う事があるのです。もうね、一生懸命やらない、どうでもいい、好きにして下さい、と。それでいい。

 息子の学校のことで、なんだかとっても疲れる事があって。私がやれるだけの事は、力の限りやったけれど、学校側ってイチ生徒の事なんか他人事だから、結局のところ、何も動かないのだろうなあと思う。動かない→動くようにお願いする→動かない→お願いする、を繰り返し、お願いの根拠も沢山提出し、沢山の手配と準備をして頑張ったけれど、やっぱり学校は動かない。他人事。こちらの焦りや、それがどうしても必要なのだという思いには、全くもって無関心で。

 学校は社会であり、社会は世界であり、息子の生きていく世界は、やはりこうなんだなあと力が抜けてしまう。普通の人なら何の問題もなく出来る事が、息子にはひっくり返っても出来ないのだけれど、出来ないという事が理解されなければ、ただの我儘にしか見えない。ただの自己中にしか。

 こちらの立場からすれば、道理を通して筋道たててやれる限りの証明も説明もしているのに、何故学校が動いてくれないのか、私には分からない。面倒くさいから。前例がないから。それって理由になるのだろうか。だから余計に疲れてしまう。せめて筋の通った理由をもらえれば、こんなに疲れることはないのに。

 願っただけ無駄だった。希望なんか捨てれば良かった。最初から。

 最初から何もせずに、一日中ソファーに座ってぼんやり暮らしていれば良かった。前向きになってしまう自分がほとほと嫌。

 出来ない息子を責める事はできないし、やってくれない学校を責める事もできない。誰も悪くないから誰も責められない。ただ間に入って私だけが、無駄にくるくる回って馬鹿みたいに疲れ切っている。息子は困っている。学校は他人ごと。私の心は苦しくて解決方法はどこにも無い。

 自分の心のケアは、自分でしなければ。辛い思いをしたくなければ、最初から望まない事。心を麻痺させて、何も感じない事。上を目指さない。誰の痛みも感じない。自分の痛みも感じない。そうすれば、誰かを憎んだり、恨んだり、腹をたてたりしなくてもすむ。心のスイッチを切って、自分の存在を消そう。

 私はここに、いない。 私はどこにもいない。そう思えればとてもラク

↑↑↑↑

 (3週間前の記事はここまで)。

f:id:oinor-i:20181029144121j:plain

 

 ここからが、今日です。

 いや~、3週間前は投げやりというか、たそがれてましたね。ここに書いている「嫌な事」は、まだ全面解決には至っていないものの、息子と私とでそれなりに落としどころを見つけ、もうひきずってはいません。二人で、「まあ、しょうがいないね。こういう事もあるさ。仕方ない」と割り切りました。今はここまで落ち込んでいません。

 かといって、気持ちがさっぱりスッキリしたのか?と言えば、そうでもなく。

 何かしら引きずっているものがあって、それを慎重によくよく見てみれば、やはりそれは、「私自身の至らなかった部分に対する苛立ち」なのでした。他人に対しては、割り切るのは簡単なのです。でも、自分の至らなさを割り切るのは、難しい。

 この「嫌な事」の件に関して、その対応に対して、私の言動に2つ程、今考えるとミスがあり、それが心にひっかかっています。

 一つは、面倒な事から逃げようとしていたこと(それなりにはやっていたけれど、もっともっとやれた筈)。それから、ある場面で感情的になってしまって、いつもは100%学校側を立てるのに、一言ですが、学校の対応を批判するような事を口走ってしまった事。

 意外と二つ目のミスを引きずります。普段だと、めったに感情的にはならないし、ここ10年以上、他人を批判するような言葉を口にした事もなかったのに。今回は、そこまで気が動転していたのと、腹に据えかねたのとで、つい口にしてしまっていました。

 口にした直後に、すぐに「あ、駄目だ」と気が付き、自分で自分の言葉をフォローしましたが。まあ、時すでに遅し、ですね。学校を敵に回してどうするんだ!と、自分を強く叱りました。馬鹿です。

 馬鹿な事を口走ってしまったのは、3週間前の上の記事を書いた後です。この記事を読んでも思いますが、ここまでやさぐれると、人生投げやりになってしまうのですね。いつもの慎重さをキープするのが難しくなり、もうどうにでもなれ、と感情に任せてしまうのだと思います。

 投げやりになったら終わり。

 今回それを、つくづく感じました。

 起こった出来事事態は、とっくに割り切って忘れられたのに、その後の自分の対応のミスに悩まされます。

 慎重さを失わない為には、投げやりにならない事。やさぐれない事が大事。その為には、こうやって記事を書いた事は良かったのですが、できたら、尻切れトンボで終わらず、頑張って最後まで書ききれば良かったのです。

 自分なりに起こった事を整理して、心を落ち着ければ、やさぐれていた気持ちも少しは癒えたはず。これからは、何かバーッと感情に任せて書いた後、しっかりと気持ちを整理して、結論まで自分で考えて書き抜いて、アップしようと思います。下書きで放置せずに。

 それが、実生活(リアル)で慎重さをキープする助けになると思いました。

f:id:oinor-i:20181115194517j:plain