書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

発達障害は大人が作っている?

 はあ~。のっけから溜息ついてしまってすみません。

 いい事書いておられるな(上から目線ですみません)と思って拝読していたブログに、タイトルのようなテーマの記事が書かれており、読んでしまって、脱力というか、溜息というか。こんな事言う人、まだいるんだなあ、と悲しくなりました。

 普段は、どなたかのブログを否定的に引用する時は、元ブログは貼らないのですが、今回のブロガーさんは書籍を出されているプロのライターさんなので、貼らせて頂きます。無料ブログとはいえ、プロのライターさんは、ご自身の発言にはそれなりの責任を持っておられると思うので。一般人とは違うと思うので。

【罪深】発達障害児は大人が作ってる | 波動探求と日本再発見と物書きをしております。

 

【戦後の日本】問題解決の為手段が、問題を増やすことに繋がってる | いつの日も神社、時々たこ焼き。

 

上のブログは、このような文章から始まります。勝手ながら抜粋させて頂きます。

私は発達障害というカテゴリーのほとんどが、大人のエゴによって成り立っているとしか思えません。

子供たちの興味や発達速度を完全に無視して、概ね「あるべき」または「であるであろう」という基準点に基づいて、まるで血圧のように正常値を定めて、そして定義しているようにしか思えません。」

・・・・・・抜粋終わり・・・・

 

 発達障害なんて無いんだよ。普通の速度で発達しない子供を指して、大人がそう名付けただけなんだよ。というのが、このブロガーさんの主な論旨のようです。

 その根拠は、

①子供の発達速度には個人差があるから、差があるからといって、障害とはいえない。

②昔は発達障害など無かったから。

の2点のようです。

①については、確かに、発達障害の診断基準に「発達の遅さ」があります。でも、発達障害児の場合、発達が遅いだけではありません。発達に凸凹があり、その凸凹が日常生活を送れないほどひどいものである、という事です。出来ない事は、「遅れて出来るようになる」のではなく、一生できません。

②については、昔の日本には、子供に人権が無かったので、発達障害児を丁寧に育てる親などいなかったからです。昔は、発達障害児は「知恵おくれ」等と言われていました。知恵おくれの子供は、乳幼児の頃にたいてい事故で死んでしまいます。小さい頃は、24時間見守らないと危ないのが発達障害児で、昔の日本の庶民の家では、「知恵おくれの子供を24時間見守る」なんて事は誰もしなかったのです。だから、歩けるようになったら、知恵おくれの多動や自閉タイプの子は、川や池や肥溜めに落ちて死んでしまうのです。当時は、子供が幼児の面倒を見ていました。普通の幼児は、年長児の後を付いて回って遊んでもらうわけですが、発達障害児は基本的に他人に興味はないので、一人で勝手にどこかに行ってしまいます。それを制する事は、10才やそこらの子供の手に負えるものではありません。余裕のある家なら、屋敷の奥の一部屋に幽閉して一生を送らせたりしましたが。いずれにしても、知恵おくれの子供が育ち上がったり、人目につくよう外に出てきたりする事は、稀でした。稀でも、「知恵おくれ」という言葉が存在するように、ゼロではなかった。ゼロではなかったけれど、ごく稀だったのです。

 今は、発達障害児が生まれても、たとえどんなに重い自閉症児でも、人権意識がありますから、親は一生懸命育てます。だから、以前なら死んでいた子供達が、死なずに育っていくので、数が増えたように思えるだけの事です。

 また、発達障害についての研究が進んだことも、発達障害者が増えた原因だと思われます。

 余談ですが、パール・バック著の「大地」に、発達障害らしき女性が登場します(場所は中国ですが、日本も似たようなものだったと思います)。その女性は、毎朝家族に家の玄関前に座らされ、手に布を渡されます。彼女は一日、そこに座ってその布をいじり続けて時間を過ごします。夜になるとまた、家族の誰かが彼女の手を引いて家の中に入れます。たまに、家族がそれを忘れると、彼女はそのまま家の外で一晩座ったままで過ごします。「大地」は昔の小説なので、彼女は知恵おくれとして描かれていますが、今なら発達障害と書かれるでしょう。他害のない、エネルギーの低いタイプの発達障害です。ウチの息子もこのタイプで、小6まではこんな感じでした。何が言いたかったかというと、つまり、小説に出てくるぐらいですから、昔から、発達障害者はいた、という事です。発達障害という名前ではなかった、というだけです。

 更に余談ですが、「昔の日本には、子供に対して人権意識は無かった」という事について少し補足します。例えば、昔の日本では、「女衒」という職業が合法的でありました。女衒とは、貧乏な親が娘を廓に売る際の仲介業の事で、免許制でした。昔の日本では、子供は親の所有物であって人権は無かったので、売ろうが殺そうが、親の自由だったのです。なので、廓で稼いだお金を親に吸い取られる娘は「不憫」というよりは「親孝行者」と褒められました。そのへんの実情は、宮尾登美子さんの自伝的小説に多く描かれています。宮尾さんご自身の御実家が、女衒を生業とされていたからです。女衒である父親は、土地の名士ですらあったそうです。また、同じく宮尾さんの自伝的小説で、満州での日本人の生活が描かれている「朱夏」では、戦争末期で財産を没収された日本人達にとって、「子供が唯一売れるものだった」と書かれています。「日本人の子供は賢いので、中国人が欲しがるから、高く売れる」とも。当時の日本人が冷たかったというわけではなく、そもそも子供には人権がなかった、というだけの事だと思います。そういう時代に、知恵おくれの子供が生まれたら、育てる価値はない、と見捨てられたのは、当然だと思えます。

 いずれにしても、「発達障害」にあたる人達は昔から存在していて、ただ、「発達障害」という名前がついていなかっただけ、だと私は思います。彼等は、知恵おくれ、とか、キチ〇イ、あるいはただ単に、変人、などと呼ばれていたのです。

 

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 上のブログ(一つ目のほう)の最後に、こういう文章が書いてあります。勝手ながら、一部抜粋させて頂きます。

 

「障害児と発達障害児は全く別物で、

さらに発達障害児は、聞けば聞くほど、発達過程の差異の問題をあれこれ大ごとにして、平均に当てはまらなかった子供たちを学術的にきちんとカテゴライズさせることによって、大人のエゴ(平均に満たなかった子供の理由)を満たしているようにしか思えなくて反吐がでる。

 

だからこそ、本当に発達障害云々であーだこーだ言ってる事はぬるいって思うし、どうにもこうにも、子供をだしにして自己肯定の手段に使っているようにしか思えない。

世の中には、私の言ってるカテゴライズに当てはまらない発達障害を抱えた子供を持つ親はもちろんいるかもしれない。でも本当にいるのかなってくらい見たことがない。

っていうか、最初に言ったけれど、小学生や中学生の頃にどんくさくて勉強についていけない子でも、ちゃんとした大人にみんななれたよ!っていうか、なれるんだからこそ、そんなことに執着している団体が気持ち悪くて気持ち悪くて仕方ない。

だってこれって

今月あなたは3㎝身長が伸びると言われていたけれど、伸びないのはおかしい!発達障害だ!

って言っているのと私は差異ないと思うの。

 

こんな事書くとさ、人権BBAな女子たちに絡まれそうだけれどさ、だから言いにくかったけれど、私の前にたまたま現れた「発達障害児童の為にうんぬんかんぬん」抜かしてるBBAたちはどれもこれも、子供を否定した上で自己肯定をしようとしているようにしか見えなかったんだよ。見逃せないよ……これはもう……自分がなんと言われようとも。

もちろん話している言葉は、上っ面綺麗で、自分の自己肯定の為にそんなことをしているなんて微塵も思っていない素振りを見せるけれども、言葉と言葉を繋ぎ合わせてみると、自己肯定するための(発達障害児を産んだのは自分のせいじゃない)気持ちばかりが散りばめられている。

 

子供は大人の鏡じゃないの?

 

私が「発達障害」に並々ならぬ問題意識を働かせているのは

大人が自分に問題があることを無視して

子供に問題がある

 

問題のすり替えをしている

 

と思えて仕方がないからだ。

 

子供を枠の中に閉じ込める事で

枠に当てはまらない子供を別軸認定することで

自分への問題を放棄しているようにしか思えないんだよね。

 

子供に問題があると思う時、

本当は自分自身に問題があるんだと思う。

そう思うことは多くの人は辛いはずだから、

別軸で問題をすり替えようとする。

それの最たるものが「発達障害認定」なのだと思う。

自分が完璧でありたい希望の上に、そうでない現実の埋め合わせをするのが「発達障害認定」なのだとしか私は思えない。 

 

・・・・・・・・抜粋終了・・・・・・・

 

 なんだか、何をどう説明したらいいのか分からないのですが。どういうお気持ちで書かれているのだろう。あまりにも現実を知らな過ぎる無責任な発言だと思ってしまいます。

 私が、ただ一つ言える事は、私の息子は今、なんとか高校に通えているし、頑張って仕事にもつけるよう日々、努力し続けていますが、いつか息子がまともに仕事ができるようになったからといって「ほら、働けているじゃない。発達障害じゃなかったのじゃない」と言われたら、たまったもんじゃないなと思います。

 息子は、生まれた時から、普通の子供とは、全く違いました。そのへんの事は、過去記事に書いています。 

 

oinor-i.hatenablog.com

 

  普通とは全く違う特性を持つ息子が、普通の人達の世界で生きてきて、これからも生きていく、という厳しさについて、それを個性の範疇だと言われたら、ああそうですか、と黙っているわけにはいきません。

 上のブロガーさんが、このブログをお読みになる事はないと思われますが、それでも、息子の主な特性について書いておきます。

①言葉の発達に遅れがあり、ある程度から先はもう伸びません。高校生の息子の会話能力は、小学1年生並みで、これは大人になってもこれ以上は成長の見込みはありません。

②他人の気持ちが分かりません。他人に興味も持てません。

③人の言葉の行間を読む事ができません。言われた事だけしか分かりません。類推したり、推察したりできません。嘘を言われても分かりません。自分自身も嘘が言えません。

④、①と②と③より、コミュニケーション能力が甚だしく欠如しています。

⑤自閉的な傾向があり、こだわりと不安感が強く、往々にして強迫性障害的になりがちです。

⑥サヴォン症候群に近く、記憶力が人並み外れてよく、一度見たもの、聞いたものは、写真を撮ったように全て覚えています。過去の出来事の全て(何年前であっても)について、年月日曜日天気出来事について、全て覚えています。アトランダムに例えば「2010年3月4日」等という年月日を息子に言えば、その曜日天気、自分が一日何をしたか、家族は何をしたか、について、即答してくれます。

 息子のこういう特性の全てが、親である私の問題のすり替えなのでしょうか。

 私にはそうは思えません。

 発達障害は、大人が作ったものではなく、現実に存在しています。何故「発達障害は存在しない」という説を、この方が唱えておられるのか、私には理解できません。

 逆に言えば。何故、「発達障害」というカテゴリーが生れたかといえば、そういうカテゴリーに入る人たちは、特性こそ違え、それぞれ著しく生きづらさを抱えている為に、生かしてあげる為には、治療と福祉の対象にする必要があるからです。現時点ですら、発達障害者は、細い紐の上を綱渡りしながら生きているようなものなのです。落ちれば死にます。それについては、過去記事に自説を書きました。

 

oinor-i.hatenablog.com

 

 発達障害者なんて死んでもいい、というのなら、「発達障害は存在しない」という説を流布されたらいいと思いますが、その罪はとても深いと私は思います。発達障害児の親が、どんな思いで子供を育てているか、こういう方には理解の外なのだろうと思います。過保護ですか、クレーマーですか、親自身の問題の投影ですか、すり替えですか、エゴですか?本当にそう思いますか。

 いや。本当にそう思われるからこそ、この方はこういう記事をお書きになったのだろと思いますが。

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 特に私が違和感を感じたのは、この方の、軽度やグレーの発達障害児に対する考え方です。

 この方は、うちの息子のようなガッツリ障害児のみ、障害と認めてやってもいい、と。でも、軽度やグレー児は障害ではない、と、書いておられるように見えます。

 しかしながら実際には、がっつり発達障害児で、かつ、障害をカミングアウトしている場合は、必要な支援を受ける事ができるので、障害が重くても、まだ生活しやすいです。

 逆に、障害の軽い軽度やグレー児というのは、一見健常児に見える為に、親も障害を認めない、もしくは認めても隠す、というケースが多く、子供が支援を受けられません。全てとは言いませんが、障害と薄々気づいていても、あえてそこから目をそらす親御さんも多いです。そうなると、軽度の子供達は、障害特性として出来ない事を、何が何でも「やれ。出来ないなんておかしい。出来ないはずがない。やる気がないだけだ」と暴言や暴力を使って「躾」られたり、逆に全く関心を持ってもらえずに放任されてしまったりしまいがちです。ただでさえ生きづらいのに、そういう不適切な子育てをされてしまいがちなので、精神的に病んでいく子供が多いのです。不登校になるお子さんの中に、不適切に育てられた軽度グレーの発達障害児も、かなりいます。本来軽度の子は適切に育ててもらえれば、健常児と同じ世界で生きていける子達なのに、親が子供の障害を認めない為に不適切な子育てをされてしまうせいで、病んでしまうのです。

 ですが、上のブロガーさんは、そういう一番かわいそうな軽度の子達を「発達障害ではない」と決めつけておられる。そういう風に決めつける人がいるから、余計に、軽度の子達は、必要な支援も、適切な子育ても、してもらえないのだと私は思います。

 発達障害に関しては、支援の手が伸びやすい中度重度の子供のほうが、むしろ楽に生きていけるという皮肉があります。軽度グレー児のほうが、可哀想なのです。それは、この方のように、中度重度なら障害と認めてやろう、でも軽度グレー児は障害児とは認めない、と(何を根拠にされているのか分かりませんが)決めつける人がいるからだと、私は思っています。それは本当に、罪な事だと思います。

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 まあ、ですが。

 「自分が思った事を、そのまま正直に書く」という事は、ある意味、良い事だと私は思っています。考えた事を、隠さずきちんと発言する、という事は、世の中の風通しを良くするからです。

 言いたい事は隠さず言ったほうがいい。だから、このブロガーさんが、ご自身のお考えを率直にブログに書かれている事については、私は良い事だと思います。内容には賛成できませんが、「自分の意見を率直に述べる」という姿勢には賛同します。

 私はここで否定的な事を書いてしまいましたが、誰かに否定されても、ご自身で正しいと思うのであれば、それを貫いて書かれればいいと思います。誰かと同じ意見を書くのであれば、自分が書く意味などそもそも無いのです。これからもこのブロガーさんには、ご自身の信じる事を、書き続けて頂きたいと思います。

 私にとってみれば。このブロガーさんのような考え方をされている人が、まだまだおられるのだなあと改めて知る事ができて、良かったです。私は最近、息子に問題がなくなってきたこともあって、発達障害に対して、楽観視し始めていましたので。上のブログには、頭をガツンと殴られたような衝撃がありました。

 発達障害は、一般には理解されない障害である、という事を、忘れないようにしないといけません。理解してもらえる、などと、油断してはいけなかったのです。発達障害者とその家族以外に、発達障害を真に理解する事は不可能だと思っておくのが調度いいのだと思います。

 上のブログの方は、「発達障害に関わると、波動が下がる、運命が下がる、悪い事ばかり起こるようになる」とまで、書いておられます。まるで、悪霊扱いです。この方は、本当に、そう考えておられるのです。プロのライターさんです。驚くというか、いやこれこそが、現実の姿なのだ、というか。

 いずれにしても、発達障害=悪霊、と考える方がおられる、という事実が存在するわけで。

 であれば、私はこれからも油断せず、慎重に、知恵を絞って生きていかねばなりません。今までだって出来てきたのですから、これからだって出来るはず、と、自分に言い聞かせています。被害者意識は持たず、ただ淡々と、気を抜かずに子育てしていこうと思います。