書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「〇〇出来ない」という障害特性について、どう対処していくのか

 自分の障害特性を周囲の人に伝える事を、「言い訳だから止めるべき」と発言されている方のブログ記事を拝読し、少し思う事があったので、今日はこの事について書きます。関係ない方には、全く関係ない記事で、申し訳ありません<(_ _)>。

 その記事のブロガーさんは、発達検査は受けておられないのですが、ご自身で、自分は発達障害だと思っておられます。30代の主婦の方です。

 彼女は、「他人の気持ちが分からない」「だから自覚なく人を傷つけてしまう」という、障害特性を持っておられるそうです。そういうご自身の事を、ずっと悩み改善しようと努力してこられたそうですが、最近、ご自身が発達障害である事を認める事にされたそうです。そして、こういう風に考える事にされたそうです。

 「もう、諦めて受け入れるしかない。だって、できないんだもん。だって、分からないんだもん。それは、もうどうしようもない。こんな私が、ここまで生きてきたことが、ホント奇跡(笑)。 何とかかんとか必死に頑張って、よくここまでやってきなー・・・。仕事して子供育てて普通の人のふりをしてきて、ホントよく頑張ったなー・・・。(発達障害なんだから仕方ない、と思ったら)ようやく肩の力がおりました。私は嫌われるんですよ。どう頑張ってもどれだけ考えても、配慮を足りさせることが、私にはできないんですから。もうしょうがない。諦めよう。私は、「嫌われる」を受け入れたその先へ、進んで行こうと思います」と。

 まず私は、この彼女の考え方について、違和感を感じました。「障害だから克服できない。だから努力しなくていい。人から嫌われても平気、と思えばラクになれる」と開き直るのは、私は共感できないのです。が、この部分については後述する事にして、先に進めます。 

 彼女には、同じ発達障害の知人がおられ、その知人さんはよく遅刻されるそうです。そして「私は発達障害で、時間通りに動けない、という障害特性があります。だから遅刻もしてしまいます」と言い訳言うのだそうです。彼女は、あれは駄目だと思う、と、主張されています。

 「自分が『〇〇出来ない』理由として、他人に対して『私、発達障害だから〇〇できません』という言葉を言うのは、言い訳になるからNGだ」と。

 彼女の持論として、「自分が、自分に対して『発達障害だから私は〇〇が出来ない』と、出来ない理由に発達障害を持ってくるのはOK。でも、他人に対してそれをやってはいけない」と主張されておられるのです。

 なんだか腑に落ちません。

 ご自身については、「私は、発達障害なので、他人の気持ちが分からず、周囲の人を無意識に傷つけてしまう。改善しようと努力したけれど、どうしても改善できない。障害だから仕方ない、と諦める事にしたら、肩の荷が下りてラクになった」と。

 でも一方で、「平気で遅刻してきて、いつも迷惑かけてくる知り合いがいるのだが、『発達障害だから治らないの。許してね』と言われても納得できない」と仰る。

 自分については、「障害だから仕方ない」。でも、他人については、「障害を言い訳にするな」と。それはどうなんだろう、と私は思うのです。

 おそらく、このブロガーさんは、深く考えずに書いておられるのだと思います。悪気も全くなく、素直なご意見なのだと思うのです。でも、一歩離れて客観的に見たら、矛盾していることは否めないのでは?と感じてしまいます。

 とはいえ、彼女の意見としては、こういうものがあるのだそうです。

 「自分で自分のことを赦せていないから、他人に赦してもらおうとするのだ。自分が『私は、出来ない事がある。でも発達障害だから仕方ない』と自分の出来なさを赦していれば、他人に対して『私は発達障害だから〇〇が出来ません。ごめんなさい』と赦しを求めにいかないものだ。他人に赦しを求めに行く人は、自分で自分の事を赦せていないから、しんどいはず。自分で自分の事を赦せていない人は、自己顕示欲や承認欲求も強い。私は、自分で自分の事を赦せるようになったから、今、とってもラクなのだ」と。

 彼女のこの理屈が私には、理解できませんでした。

 そもそも、発達障害者が何か出来ない時、それが問題になるのは、その事で誰かに迷惑をかけるから、です。もし、不備があっても誰にも迷惑をかけないのであれば、それは問題にはなりません。

 自分が自分を赦すとか、赦さないとか、そういう事ではない、と私は思います。

 このブロガーさんは、「他人の気持ちが分からない」という障害特性を持っていて、そのせいで「無意識に人を傷つけてしまい、嫌われてしまう」という問題を抱えています。今はもう「人を傷つけてしまう自分でもOK」とし、「嫌われてもいい」と開き直った事で、ラクになった、と。

 うん。開き直る事で、そのブロガーさんはラクになったかもしれない。でも、彼女が今でも日常的に、周囲の人を傷つけ続けている、という事実は変わらないわけです。人に迷惑をかけ続けている、という事実は変わっていないのです。彼女が「人から嫌われてもいい」と思おうがどうしようが、そこはどうでもよく、彼女が「人に迷惑をかけ続けている」という事実が問題だと、私は思います。

 一方、「時間が守れない」という障害特性を持つ知人さんは、周囲の人に「遅刻してすみません。決して、あなたの事を軽んじているわけではありません。私は時間が守れないという障害特性があるのです」と、説明しています。「遅刻する」という迷惑を人にかけているわけですが、その理由を説明し、少なくとも相手を馬鹿にしてるとか軽んじているから迷惑をかけているわけではない、と知らせている。発達障害だから許してもらって当然、と言っているわけではないのです。これの、どこが悪いのか、私には分かりません。

 何も説明せず、無意識に人を傷つけておいて「私を嫌いになるならお好きにどうぞ。私は嫌われても気にしない事にしました」と開き直るよりも、ずっといいのではないかと私は感じました。

 そもそも、発達障害者が「〇〇が出来ない」という時、その事について、どう対処していったらいいのか、私の考え方はこんな感じです。

①自己流で対処しても、克服できる見込みは薄い(障害だから)ので、専門家に相談したり、本を読んだりして、自分の障害特性の克服の仕方を学ぶ。

②障害特性を克服する努力を続けている、という前提の上で、障害特性のせいで他人に迷惑をかける事がある事を、周囲に伝えておく。

③同時に、周囲の人の支援や配慮が頂ければ、障害特性が克服しやすい場合は、支援や配慮について、お願いしてみる。

 ①については、息子を育てていて感じますが、発達障害の障害特性は、ゼロにはできなくても、少しづつ改善していく事は可能です。障害なので、自己流でやっても結果が出ない事が多く、発達障害というものがどういうものなのか、専門家の話を聞いたり本を読んだりして勉強して、自分にとって正しいやり方で努力してく事が必須です。自己流の「努力」は無駄に終わる事が多いと思います。病院に行く目的は、診断名を付ける事ではなく(診断名はよく変わる)、どういう努力方法が自分に必要なのか、を知るのが目的です。

 なので、このブロガーさんが、病院に行かず、「自分は発達障害だから、人の気持ちが分からない事を、克服できない。今まで沢山努力したけれど、良くならなかったから、もう諦めた」と言うのは、私には、ある意味で「努力不足」と感じられます。彼女は、「自分がやりたい努力」はしたかもしれないけれど、「自分がやりたくない努力」はしていないからです。

 彼女の「やりたい努力」というのは、民間の自己啓発や心理セミナーに通う事。「やりたくない努力」とは、ちゃんと病院に行って、検査を受け、厳しいかもしれないけれど正しい努力方向を知る事、です。「やりたい努力」しかやらずに、「一杯努力したけれどもう無理」と言うのは、怠慢だと私には感じられます。

 ②についてですが、他人に障害特性を伝えておく、というのは、彼女の言うように「言い訳」目的とは限りません。身体的な障害者の場合は、見てすぐに障害がある事が分かるので、例えば、盲目の方にぶつかられても、「ああ、見えなかったのだな、悪気はなかったのだな」とすぐに分かります。だから「私は盲目なので、ぶつかってしまったらすみません」とわざわざ伝える必要はありません。でも、発達障害の場合は、見ても分かりません。だから、障害を持っている事を、伝える必要があるのです。

 ③については、これも障害特性を克服する自助努力を続けている前提で、周囲に配慮や協力を求める事は、必要な事だと私は思っています。もちろん、協力や配慮を断られる可能性は分かっていて、断られても仕方ないとちゃんと諦められる事もまた、前提です。一応は言ってみる、という事です。配慮さえあれば、周囲に迷惑をかける度合いを減らせるのであれば、言ってみる事は悪いことではないと、私は思うからです。

 発達障害者が「〇〇出来ない」という障害特性について、どう対処していくのか、人それぞれあるでしょうが、私はこう考えていて、息子をそういう風に育ててきて、今のところトラブルはありません。

 少なくとも、自分の障害特性を周囲の人に伝える事を、「言い訳だから止めるべき」というのは、乱暴な意見だと思うし、逆に「障害だから克服できない。だから努力しなくていい。人から嫌われても平気、と思えばラクになれる」と開き直るのは、私は共感できないなあと思います。

 もちろん、すべて個々人の自由ですが、障害を開示し理解を求める事を、「言い訳」と捉えるこのブロガーさんの考え方に対し、「それは違う」という意見を整理しておきたく書きました。どちらがいい悪いではないですが、こういう考え方をなさる方が存在する、という事は、少なくとも息子が実社会で、障害を開示して理解を求めた時に「言い訳するな」と言われる危険がある、という事で、であれば、「言い訳ではないです」という事を筋道たてて説明する必要があるからです。

 発達障害の特性のうち、人に迷惑をかける部分について、書いています。人に迷惑をかけない障害特性というものも、沢山あるからです。それは、自身さえ構わなければ、無理して克服する必要はないと、私は思っています。問題は、「人に迷惑をかける特性」について、です。

 「自分は発達障害である」という事を、克服する努力を放棄する理由として使うことは、それを誰に向かって言うのかは関係なく、私には違和感がある、という事です。自分に対して言うならOK、他人に対して言うのはNG、という理屈が私には分かりません。

 克服に対する努力を放棄しているのなら、「発達障害だから仕方ない」は言い訳になるし、努力を続けているのであれば、言い訳にはならない、ごくシンプルな話です。自分に言うなら言い訳にならない、という理屈は分かりません。誰に言うかは関係ない、と私は思います。

 また繰り返しになりますが、障害特性を克服する努力を続けている上で、周囲に対し、障害への理解を求めていく事は、間違っていないと私は思っています。

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