書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「考え方」の基準をどこにおくか。

 今日は、自分自身の考えをまとめる為に書きます。

 ある方が、

「自分の考え方が正しい、という事を、他人に分かってもらおうと思うなら、理屈で説得するのではなく、自分が幸せになったところを見せればいい。ただ自分が幸せでいるだけでいい。その考え方でいる自分が幸せでいさえすれば、あなたの言っている事は間違っていないね、と思ってもらえる」と仰っておられました。そして、その方は今現在のご自身を、「幸せ」だと仰っておられました。 

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 申し訳ないのですが、私は、何か納得できませんでした。

 まず、その人が「自分が幸せだ」と言いさえすれば、その人が幸せだ、という事になるのかなあ?という疑問が浮かびました。勿論、幸せは主観的なものですが、それでも、客観的に見て、どう考えても幸せには見えない人の「自分は幸せだ」という自己申告には、どこか素直に頷きずらいものを感じてしまいます。

 また、もう一つの疑問が、確かにその人自身は幸せであっても、その人の周囲の人達が不幸だったらどうなのか?という事です。

 周囲の人を不幸にした、他人の不幸の上に築き上げたような幸せであっても、その人自身が幸せであれば、その人の考え方は正しかった、と言えるのだろうか?と。

 歴史上の人物を思い出してみても、例えば、ヘンリー八世とか、、。彼自身は「自分は幸せだ」と信じた一生だったと思います。自分のやりたい放題に生き、55歳で息を引き取る寸前まで、手厚い介護を受け、とても「幸せ」な一生だったでしょう。が、周囲の人は(少なくない人数の妻子ですら)彼の命によって、ことごとく処刑されました。処刑の理由も自分勝手なものばかりで、例えば新しい女性と結婚したくなると、今の奥さんを滅茶苦茶な理由をつけて処刑してしまう。「邪魔者は消せ」が彼の信条でした。五人目の妻キャサリンは、二十歳そこそこと若く、斬首の場で処刑人の手をふりほどいて逃げ回ったというから哀れです。多くの人の「不幸」の上に、ヘンリー八世の「幸せ」は成り立っていたわけですが、あれが正しい考え方だとはとても思えないのです。 彼は、英国の歴代王の中でも、際立って冷酷な絶対君主として知られています。しかし、繰り返しになりますが、彼自身は自分の人生を、間違いなく「幸せだ」と思っていた筈だし、自分自身の判断を「正しい」と思っていた筈です。

ヘンリー八世の六人の妻

ヘンリー八世の六人の妻

 

  私が思うのは、やはり「人間の考える事」というのはそもそも、「正しいか正しくないか」という基準では、取り扱えないのではないか、という事です。

 人間に肉体がある限り、「慢」から完全に逃れる事はできないからです。

 なので、ある考えについて思いを馳せる時は、それが「正しいか正しくないか」ではなく、「霊格が上がるか下がるか」という基準で捉える事が、一番安全ではないと思っています。

 霊格が上がるか下がるか、という事については、過去記事に書いたのでここでは省きますが、私がざっくりと把握しているのは、良心=霊格、という事です(間違っているかもしれませんが、私はそう思っています)。

 その考え方が良心に沿うものであれば、それは霊格が上がるものだからOK。

 その考え方が良心に反するものであれば、それは霊格が下がるものだからNG。

 そういう風に捉えていれば、個人の主観でどうとでも言える「幸せかどうか」に頼らず、確かな方向に進んでいけるのではないかと思います。

 もっと言うと、自分の霊格は他人にアピールする必要はまったくないので、「自分の考え方が正しい」と他人に分かってもらう必要もなくなります。

 つまり、最初に戻りますが、その方が仰る「自分の考え方が正しい事を他人に分かってもらう」必要がなくなるのです。

 自分の霊格が上がる下がるという事において、他人の賛同は全く関係ありません。他人に分かってもらったからといって自分の霊格が上がるわけではなく、他人に分かってもらえなかったからといって自分の霊格が下がるわけでもありません。

 自分の霊格は自分がどう生きているかで決まるものであり、他人の動向は一切関係ないのです。霊格、という世界で世の中を見ると、人からの評価に右往左往することがなくなるので、生きるのがとてもラクになるように思います。 

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  ヘンリー八世の霊格は、一体どんな事になってしまったのか、考えるだけでも恐ろしいです。私には関係ないことなのが有難いです。