書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

もう注意しない。諦める。

 子育てについて、大きく方向転換する事にしました。今日の記事は、とても長く、且つ重いので、閲覧にはご注意ください。

 昨日、夜寝ようとしていたら、またしても息子にからまれました。久しぶりです。息子の言い分は、「不安で仕方ない」と。何が不安なのか?と聞くと、「同じ事を何度も言ってしまって、お母さんから怒られるのが不安」と言う。

 「同じ事は言わないようにあなたが頑張っていたら、完璧にできなくても、お母さんは怒らないよ。現に今日だって、あなたは同じ事を5回も6回も言ってたけど、お母さんは見て見ぬふりをして怒るどころか指摘もしなかったし、あなたの相手をしてあげたでしょう」と私が言うと、それについては息子も認めたのですが、それでも、

「今後、僕が同じ事を何度も言ってしまったらお母さんから怒られると思ったら、不安で仕方ない」と訴える。そして「僕がもし同じ事を何度も言ってしまっても、僕がどんな事をしても、僕がどんな間違いをしても、お母さんは24時間いつも絶対に笑って。僕を褒めて」と言う。

 「お母さんは、あなたが努力していたら、たとえ完璧に守れなくても怒らないよ」と根気よく何度も何度も表現を変えて伝え続けると、

「僕が努力しているのに、お母さんに「努力していない」と思われるかもしれないのが不安」と言う。

「努力していたら、分かるから大丈夫。あなたが努力しているのに、お母さんが「この子は努力していない」と誤解する事は絶対にないから大丈夫。今までだって、あなたが努力したのに結果が出なかった時でも、お母さんは一度だって怒った事はないでしょう。あなたが努力したのに0点しか取れなかった時だって、頑張ったね、と褒めたでしょう。怒らなかったでしょう。いつだってお母さんは、結果ではなく、あなたの努力だけを見て来たでしょう。あなたは理不尽に怒られた事なんて、ないでしょう。だからお母さんの事を信用して。あなたが努力していたら、結果が出なくても、お母さんは怒らないから」と言葉を尽くして説明したけれでも、息子には通じない。

「お母さんは、絶対に僕を怒らないと約束して。24時間笑っていると約束して」と言ってきかない。でないと不安で仕方ない、と言う。

「あなたが努力を放棄して、自分は何をやってもいい、と人迷惑を考えずに傍若無人になっていたり、同じ事が頭の中でぐるぐるしてそれを人にずっと言い続けていたりしたら、お母さんは注意するし、なんとかしてそれを止めさせるように努めるよ。怒らないけど、注意はする」と私が言うと、息子は、注意と怒るの違いが分からない。どれだけ説明しても、注意=怒る、と思い込んでいて、そこから頑固に離れない。

 2時間ほど同じ話を繰り返され、蒸し返され、私としては精一杯頑張って説明したけれども、1ミリも通じない事に疲れ果て、もう無理だなあと痛感しました。最後はもう、こうやって延々相手をする事自体が息子にとってよくない、と思い、「疲れたから寝る」と強引に言って、自室に引き取り寝ました。息子は寝なかったようですが、それももう私にはどうしようもないこと、と割り切りました。

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 夜、2つ夢を見ました。朝起きてからも、ハッキリと覚えていました。

 1つは、お寺の仏像が沢山並んでいる場所に、私がいる夢です。沢山の仏像の中で、私はある一つの仏像だけを拝みに来ています。毎日、その仏像だけを拝んでいるようです。仏像はひとつづつ、お社のような扉の中に安置されているので、私はその扉を開けて拝みます。何日かたった時、いつものようにその扉を開けたら、仏像のお顔が違うのです。いつも仏像のお顔ではない。「あれ?」と思い、間違えたかな、と思って一旦扉を閉めますが、確認しても、それはいつもの仏像の扉です。もう一度開けてみると、やっぱり違うお顔なのです。いつもの仏像のお顔ではなく、まるで生身の人間のお顔なのです。体は仏像のままで、お顔だけ人間のようなのです。どうして?と思って見ていると、仏様が私に話をされました。「手を出して」と言われた気がして、手のひらを出すと、仏様は私の手の平に、人、という字を書かれました。「人?どういう意味ですか?」と伺うと、「周りの人も、自分も、みんな人。同じ人間。同じ」と仏様は答えられました。「人も自分も、人。同じ、人。同じ」と仰いました。夢はそこで終わりました。

 2つめの夢は、息子が柵のないドブ川の側に立っている夢です。ドブ川は深く、大人でも足がつきません。汚れていて底も見えません。臭い汚い川です。その川の側に、息子が立っています。息子は幼稚園児くらいの年齢です。幼稚園の先生も側にいます。私は息子と先生に「そんなに川の近いに立っていたら落ちるから危ない」と注意しました。が、息子は注意された事に対して「お母さん、虐待。そんな事言わないで」と怒りました。そしてそのまま息子は後ろ向きにドブ川に落ちました。「あ!」と思って、急いで川をのぞくと、かろうじて息子の手の先だけが見えます。川の面自体も低い位置にあり、私が手を伸ばしたところで届きません。夫に頼んで、私の足を持ってもらい、ドブ川に体を落として、息子の手の先をつかみ、夫に私の足を引っ張り上げてもらって、息子を助け上げました。私は全身ドブ水に浸かり、臭くて汚い。息子に、「もうドブ川の側に立ってはいけないよ、危ないからね」と注意すると、息子はまた、「お母さん、虐待。お母さん怒らないで」と言い、またドブ川の淵に立ちます。ああ、また落ちるなあ、と思ったところで目が覚めました。

 この2つの夢を見て、私は決めました。

 私はもう、息子を「特別に守ってやらねばならない存在」とするのは止めよう、と。息子も「弱い人間」ですが、私だって「弱い人間」なのです。息子が守られるべきであるなら、私だって守られるべきなのです。息子だけが一方的に守られる側で、私だけが一方的に守ってやる側で、息子だけが何をやっても許され自己中が通り、私だけが常に辛い自己犠牲をせねばならない、のはおかしい。

 たとえ息子が発達障害児であったとしても、あまりにも大きな不均衡はやはりおかしい。発達障害だから何をしても許される、どこまでもエンドレスで助けてもらえる、甘えを許される、むちゃくちゃな言い分が通る、というのは、おかしい。

 私はもう、息子に「注意する」のは止める事にします。息子がドブ川に落ちても、「助ける」のも止める事にします。息子は死んでしまうかもしれないけれど、それでもいい、と思います。それならそれが、発達障害児としての息子の寿命だったのだと割り切ります。そこまで思い切ります。

 これ以上、私は、同じ「人間」である彼に対して、自己犠牲は払わない、と決めました。17年間頑張り続けましたが、それはそれで良かったと思いますが、同時に、もう十分だと思いました。

 これからも当たり前の子育ては続けます。勉強を全教科教えるのも続けます。が、必要以上に自己犠牲を払う行為は、もうしません。注意してキレられたら、もうそれ以上は注意しません。私に注意してもらえなくて息子がドブ川に落ちても、仕方ないですし、私は落ちた息子を助けません。私に助けてもらえなくて息子がそのまま死んでも、仕方ないです。

 それでいい、と今朝、起きて、決めました。息子を見捨てるわけではありません。私にやれる事はこれらかもやり続けます。でも、過剰な自己犠牲はもう止めます。

 息子が幸せに生きられるようにしてやる事、息子が彼の能力をうまく使って自己実現した人生を送れるようにしてやる事、私はそれを目指してきましたが、諦める事にしました。息子を幸せにしてやらねば、と思うとどうしても、必要な注意をしてしまう。でも息子はそれを「怒られた。お母さん怖い」としか受け取らない。どれだけ時間をかけて丁寧に穏やかに冷静に説明をしても、何時間かけても、息子には通じない。どころか逆に、息子は「怒られた、お母さん怖い、僕は不安だ」ということを理由に、延々私にからんでくることになる。息子に不用意に注意してしまう事で、私は息子に、私に延々相手をしてもらう理由を、与えてしまう事になる。

 しかも、その注意は結局、一切息子には理解されない。注意するだけ無駄で無益で、時間と労力の無駄であり、息子の私への依存や、不安神経症を加速させるだけの結果になっている、という事に、私はやっと気づきました。

 でも必要な注意を受け、自己改善し続けなければ、息子が幸せな人生を送ることは不可能。であればもう、諦めるしかないのだ、という結論に、私は達しました。

 息子が欠点を直そうとしなければ、発達障害者特有のそれらの欠点から、人から疎まれたり嫌われたり邪魔にされたりしながら、生きていく事になるでしょうし、本来の息子の良い面や能力を活かして生きていく事も難しいでしょう。欠点の全てを直す必要はなく、少しでもいいから「直そう」という意思を持ってほしい、「直そう」という姿勢を見せれば、人はあたたかく見守ったり助けてくれるもの、と息子にはずっと説明してきたけれど、どうしても伝わらないのです。直せない、怒られる、不安、これしか彼の頭にはないのだし、彼の頭の回路はそういう風にできてしまっていて、私がどれだけ努力しても、彼の頭の回路を正しく接続し直す事は、できないのです。彼には、「出来る」か「出来ない」しかない。0か100しかない。そして、「出来ない」と「怒られる」から「不安」になるので、そもそも「出来るように努力しろと言われたくない」。

 これが、障害、ということなのだなあと、しみじみ思います。

 諦めるしかないのだと思います。私が諦める事で、私は息子に注意しなくなり、そうなれば息子は私から怒られる、という事を不安がることもなくなります。私から怒られる(私は穏やかに注意しているだけなのですが)事が今の息子の一番の不安材料なので、私がそれを止めれば、息子の不安はなくなります。不安神経症的な言動もなくなります。束の間の平安だったとしても。

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 今朝、息子が起きてきて、思いがけずこんな事を言いました。「僕、強くなりたい。強くなれば、不安にならないから」と。今までの私なら、どうやったら強くなれるのか、強くなるとはどういう事なのか、一緒に考えてやっていたのですが、今日からはそれも止めました。息子は一人で考え、自分で決めて、実行していく事になります。

 息子はまた、私に、「僕は、同じ事を何度も言わないように頑張る」と言いました。「分かった。頑張ってね」と私は言い、それ以上の言葉はかけませんでした。息子は彼なりに何かを工夫し何かに耐え、自分でもがいてやっていくでしょう。

 息子はまた、私に、「僕、同じ事を何度も言わないようになれたら次は、人と上手に話せるように頑張る」と言いました。「それには練習がいるね。必要ならその方法はお母さんが考えるから、必要になったら言ってね」と伝えたら、「分かった。必要になったら言う」と言っていました。

 今日は一日、息子は落ち着いていて、少しだけ何かが変わったように思います。 

 これでいいのかどうか分かりません。でも、私はこの方針で行こうと思っています。いずれにしても、子育てについての全ての責任は私にかかってくる、というその部分は変わりません。

 重く自己中心的な文章を最後まで読んで頂き、有難うございます。