書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

霊格を落とす私の悪い癖③

 霊格を落とす私の悪い癖シリーズということで、、、本当に沢山あって我ながら嫌になるわけですが、ここに書くことで克服したい、と思うのです。少なくとも①、②に関しては、着々と改善しつつある(嬉しい事に!)ので、書くことで意思が強まる効果があるように思ってます。

 で、私の悪い癖の三つ目は、他人を批判的に見る癖がある、という事です。悪い癖①の「人を責めたくなる」にとても近いのですが、ちょっとだけ異なります。積極的に責める、とまではいかない、ただ、他人の言動を、私自身の物差しで、心の中でジャッジする癖、なんですね。

 勿論、相手にわざわざそれを言いに行ったりは絶対にしません(恐ろしすぎます、、)。私の心の中で、ひっそりと「あれはおかしいよな」と思うだけなのですが、それでも、批判している事に変わりはありません。

 私がついつい心の中で批判してしまう言動というのは、「弱い者いじめ」なのです。それ以外の言動については、何とも感じません。例えば、休みの日に一日中家で寝ていた、と聞いても、ああそうなのね、とかし思わない。これも人によっては、「せっかくの休みなのだから、外に出て活動しないと、もったいないでしょ」とか思うかもしれないですが、私はそうは思わないんですね。外に出ようが家にいようが、誰にも迷惑かけていないんだから、「その人の自由だろう」と思うのです。

 でも、「弱い者いじめ」に関しては、苛められている人が存在する、わけで、そこにどうしても思いが至ってつらくなるのです。上司が部下をいじめる、先輩が後輩をいじめる、親が子をいじめる、etc、、。そういう事を「その人の自由だろう」とは思えないのです。個人的にとてもつらい。いじめられている人と私自身が一体化してしまってつらいんですね。特に、親が子をいじめる(暴力暴言だけではなく、世話をしない、とか、無視するとか、の育児放棄も含め)のは、子供と私自身が一体化してしまって、つらくて仕方なくなる。だから、その親御さんに対して、とても批判的な目を向けてしまうんです。

 さらに言えば、そういう親御さんというのは、ご自身が子供をいじめている、という事を、認めないというか、なんといえばいいのか、自己正当化する方が多いように思うのです。

 親だって人間なのだから、完璧な子育てが出来なくて当たり前だ、とか、私は〇〇だから仕方ないのだ、とか。

 たとえば、〇〇のところに、「未熟」という言葉を入れるとこうなります。「私は未熟だからこそ、子育てさせてもらって修行しているのだ、だから、子育てで私が間違ったり失敗する(子供を怒鳴ったり叩いたりしてしまう)のは想定内。だって私は未熟なのだから。これからも沢山間違ったり失敗したりすると思うけれども、私はそれでいいのだ。こんな未熟な親のもとに生まれてきてくれた我が子はすごい器の大きい魂だ」という内容の記事を読んだことがあります。子供に感謝している体で、結局は一切の反省なしに都合のいい自己正当化をされていて、お子さんはつら過ぎるなあと思った瞬間に、私はその人の事を、批判的な目が見ている事に気づきました。

 一日中家で寝ている人に対しては「別にいいじゃん」と思えるけれど、子供を怒鳴っている人に対しては、そうは思えないで、どうしても批判的に見てしまうんですね。

 すごく以前、私は別のブログをやっていたことがありました。その時、私の書いた文章を自分への批判だと勝手に解釈して、怒って来られた方がいました。私はその時も、子供を怒鳴っている人に対して批判的な文章を書いていたのです。私に怒って来られた方は、私がその方の事を書いたのだと勘違いされて(実際には私とその方は全く面識がありません)、怒ってこられたのです。

 その時のその方の言葉は、こんな感じでした。

〇あなたみたいに他人の批判ばかりしている人って、不幸な人だ。心が真っ黒なのだ。

〇人に言いたい事は自分に言いたい事、あなたは私を批判しているつもりかもしれないけれど、実際は、自分で自分を批判しているに過ぎない。

〇人にはそれぞれ事情というものがあるのだ。私の事など何も知らないのに、勝手な事を言うな。

みたいな感じでした。

 私はただ謝って終わりました。そうするしかないなあと思ったからです。そして、そのブログ自体を全て消去しました。ずいぶん前の話ですけど。

 それから私は、他人を批判的に見なくなったのか、と言えばそんなことはなく、「弱い者いじめ」に対しては、私の批判精神が発動してしまいます。やめたいやめたい、と思っても思っても、やめられない。

 でも、ここ最近霊格について勉強していて、神仏は人を批判しない、と知りました。人を批判する仕事は、(地獄の)餓鬼が担当している、と。

 神仏に近ければ近いほど、霊格が高くなり、餓鬼に近ければ近いほど、霊格は下がります。

 つまり、人を批判的に見ないでいられれば、神仏(の行為)に近づくので、霊格を上げる事ができる。一方、人を批判的に見れば、餓鬼(の行為)に近づくので、霊格を下げる、という事になるわけです。

 たとえ、その人が、「批判されるべき間違いを犯していたとしても」神仏は、絶対にその人を批判しません。

 神仏がしなくても、誰かが間違いを犯したら、まず、宇宙のしくみとして、間違いを正させるような現象が起こりますし、それでも直さなければ、繰り返し(間違いを正させる現象が)起こります。それでも直さなければ餓鬼が地獄に連れていくわけで、神仏が手出ししなくても、きちんとまわっているのです。

 神仏さえも一切手出ししないのに、私がしゃしゃり出て、「あの人のああいう所は間違っている!」と心の中でとはいえ、指摘する必要はありません。批判的視点は、私には無用なのだと、少しづつですが、理解しつつあります。

 人を批判的に見る癖は、私の悪癖の一つで、絶対にやめないといけない事です。やめる、と決めて、しっかりと実行していこうと、強く思っています。