書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「我慢」ではなく「割り切り」を。

 今日、人と話していて、「我慢と割り切りは違う」という事を考えた。その人(女性)には娘さんがおられて、その娘さんとあまりうまくいっていない、と愚痴めいた打ち明け話をされたのだ。娘さんは彼女の事を、よく批判してくるらしい。

 例えば娘さんは、こういう事で彼女を批判する。

「ママはどうしてそんなにパパに冷たいの?好きでもないのにどうして結婚したの?嫌いになったからって、パパにツンケンして冷たくするのって、おかしくない?勝手すぎない?誰かに無理やり結婚させられたわけじゃないんだから、責任もって最低限の礼儀は尽くすべきじゃないの?」と。

彼女は夫(娘さんの父親)に対してとても冷たいらしい。夫とろくに口もきかず、ツンケンしていて、食事も乱暴にダンっとテーブルに出すし、夫と一緒に食事していても自分だけ何も言わずにサッと食べて片づけて消えてしまうらしい。とにかく夫の顏を見るのも声を聞くのも嫌なのだそう。理由を聞くと「夫にひどい事を言われて傷ついたから」と言うのだ。でも、具体的にどういう事を言われたのかは教えてくれない。

 私は別に、どちらの肩を持つ、というのでもないのだが、ただ、彼女の娘さんは私の息子と同じで発達障害児なので、繊細なところがある。雑な対応をしていると、後々面倒な事になるのは経験上間違いない。娘さんが疑問に思っている事があるなら、娘さんに分かる言葉で、納得できるまで説明してあげないといけない。でないと娘さんは世の中に対して諦めを持ってしまう。一旦世の中を諦めて自分の中に引きこもってしまうと、再び出て来させるのに大変な苦労をする。発達障害児に対して、親都合優先の雑な対応をしていると、結局親自身の首を絞める事になる。

 というような事を彼女に言ってみると、彼女は、「夫に普通に接するなんて無理。夫を我慢するなら、その分、外で楽しい事を沢山やらないといけないわ。今以上に」と言う。彼女はわりと羽目を外して遊ぶ人なのだ。たとえば家に子供を置いたままで、旅行に行く等という事も普通にやる。

 私は彼女の「夫を我慢する」という言葉に、少し抵抗感を感じた。私も夫の事で、腹が立つ事も多いが、「我慢する」という風には考えていない。私は、「割り切って」いる。

 「我慢」と「割り切り」は違うと思うのだ。「我慢」は一方的に自分が正しく、相手が悪いという事だ。「割り切り」は双方に落ち度があり、お互い様だから、平和に暮らす為にお互い相手の欠点には目をつぶりましょう、という事だ。自分に落ち度はない、と強く思っている場合は「我慢」になる。自分にも落ち度はある、お互い様だ、と思えれば、同じ事も「割り切る」事ができる。相手も悪い、でも自分も悪い、だから公平だ、と思えれば、嫌な事でも「割り切って」できる。相手だけが悪い、と思っていると、不公平感が募るから「割り切れない」で「我慢する」事になる。

 彼女は、夫を我慢している、と言う。「ツンケンせずに、普通に接してあげたら」と言っても「そんな事は無理。嫌で嫌で仕方ないから」と言う。「それでも普通に接してあげないといけないのだとしたら、ものすごく我慢しなきゃできない」と言う。私が、「我慢じゃなく、割り切ってみたら」と言っても、「割り切れない」と言う。一方的に、夫が悪いから、と言う。

 しかし客観的に見れば、彼女にも多くの落ち度がある。衝動的で考えが浅いところがあるし、自分勝手なところがある。時間を守らない。思った事をそのまま口に出すし、嫌な事(家事等)はあまりしないし、遊び癖がひどい。もちろん、ご主人も完璧な人ではない。口下手というか、相手の気持ちを察して気遣う、という事があまりできない人だ。客観的に見れば双方に欠点がある。

 ご主人は彼女の事を「ああいう人だから、仕方ない」と割り切って付き合ってくれているのだから、彼女もそうすればいいと思うのだが。彼女は、「割り切るなんて私にはできない」と言うし、「分かったわよ。私が我慢すればいいんでしょ」と投げ遣りに言う。「我慢はしなくていいよ。あなたの場合、反動がきついから。我慢するくらいなら、今のままでいいんじゃない?ただ、我慢じゃなく、割り切れるようになれればいいね」と言っておいたが、多分伝わっていない。素直でいい人なのだが、我が儘勝手なところが足を引っ張っている。残念だ。

 かくいう私自身も、他人の欠点はよく見えるが、自分の欠点は見えない。自分の欠点も、同じくらいよく見えるといいのだが。自分の欠点を、他人の事のようにクリアに見渡せるようにはなれれば、どんなにいいか。人生が激変するだろう。彼女と話しながら、そんな事も考えた。