書くしかできない

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中野信子さんの「努力不要論」

 脳科学者である中野信子さんの著書「努力不要論」。サブタイトルが「努力したら負け」。昨今の「頑張らないほうが人生うまくいく」「無理しないでありのままで」の流れに、完全に乗っかっているが、タイトル詐欺に近いかもしれない。中身は「努力不要を脳科学の観点から説き明かす」的な内容ではなく、努力という事に対する作者の知見と主観がランダムに書かれているだけだから。だが、これはこれで面白い。タイトル詐欺だ!と、アマゾンあたりで散々叩かれているが、「努力にまつわるエトセトラ」的なタイトルで出せば何の問題もなかったと思う。

 この本から少し離れるが、中野信子さんと言えば「脳内麻薬」や「サイコパス」等、ベストセラーになった著作が多い若手の女性科学者さんで、個人的には竹内久美子さんに近いのかなと思っていた。が、何冊が著書が出揃ってきて、竹内さんとは全く違うタイプの方なんだと思い始めている。竹内さんは論旨をハッキリ打ち出すし、そこに枝葉を付けていく堅実な著述をされるが、中野さんは思いつきをアトランダムにアレコレ雑多に書いていかれるタイプだと感じる。また、編集者さんの誘導に負けてしまわれるのか、売らんかなの題名をつけるから、内容と題名がズレてしまう。それでもなんとか題名に合致するように書かねば、と多少とも内容を題名に寄せているので、余計に何が言いたいのか読んでいて分からなくなる。否定的なコメントが多くつくのもそのせいだと思う。題名さえ変えれば何の問題もないのに、といつも思うが、それだと売れないのだろうか。

 本書に話を戻す。この本は、先にも書いた通り、努力というものに対する著者の知見や主観が書いてある。どれも別段目新しい意見ではなく、むしろ手垢のついた主張で少なからずガッカリしたが、面白い記述が沢山あり、そこが中野さんの魅力だと思う。

 ネタバレ承知で内容について書くと、こんな感じ。

「努力は報われる」は半分本当で、半分嘘。

半分本当の意味は、人間の各機能は負荷をかけないとどんどん衰えていくから、負荷をかけ続ける必要があるから(負荷=努力)。

半分嘘の意味は、負荷(努力)をかけ続けても、その人の持つ可能性の最大値を超える結果を出す事は不可能だから。努力して成功したという人は、偶然要因を語らないし、それはただの「サンプル1」に過ぎない。

「成果の出る努力に必要なもの」は、①目的を設定する、②戦略をたてる、③実行する、という三段階のプロセス。例えば、専業主婦願望のある女性が、大学で勉強したり就職して仕事を頑張ったりするのは無駄な努力。結婚して専業主婦になりたいのなら、男受けのいい短大に進み、若いうちに良い男性を探して結婚する方向に努力すべき。

「間違った努力」とその弊害。

努力には中毒性があり、始めると途中でやめられなくなる危険がある。それが何故悪いかというと、過剰な努力は人間をスポイルするから。ある事に対して過剰に努力している人は、他方で倫理的に悪い行いをする傾向が高い。人に我慢できる量は決まっており、我慢の限界を超えると、人は別の場所でうっ憤晴らしをしようとする。「自分はこれだけ頑張っているのだから許される」という言い訳を無意識に脳がやってしまう。

過剰に努力している渦中(ストレスがたまり、睡眠不足、空腹などの条件がある)の人間は、洗脳されやすい。人の判断力を奪うには、睡眠時間を奪い、食べ物を与えず、がんがんストレスをかければいい。それだけでほぼ洗脳できてしまう。

努力以外の遊びの部分が、脳にとってのエサだから。大人の脳でも神経細胞は常時生まれているが、新しい刺激が入らないと神経細胞は死んでしまう。新しい刺激というのは、人が楽しいと感じられること、つまり遊びのこと。

本来、遊びというのは高尚なこと。必要なこと以外にもリソースを割けるという事が、豊であり、洗練されている証。至上命題にまっすぐに努力するよう生き方は、本来の大和魂ではない。努力信仰は、明治以降に起こったもので、それまでの日本人は、とくに生活に役立つわけではないけれども、面白かったり、楽しかったり、美しかったり、するものを感じる心を大切にしてきた。これが大和魂で、優雅さや余裕や豊かさや風格は、ここから発する。

真面目に努力している(誠実である事を自らに課し、成長を願うあまりに上ばかり見てしまう)人ほど、柔軟かつ合理的な判断ではなく、0か100かという極端な判断をしがち。理由は、そういう人は、自分を人と比べがちでかつ報われなさを感じやすく、心理的にしんどい人生を送っているから。

もともとの能力は低く、しかし努力に努力を重ねてのし上がってきた人は、他人の才能を見抜いて潰しにかかる傾向が強い。(余談:努力家に潰されない為には、相手の溜飲を下げるような、自分自身の弱みを提示するのが効果的・アンダードック効果)

長生きの秘訣は、無駄な努力をしない事。歴史を見ると、人と極力戦わず、うまく安逸に生きた人ほど長寿。努力家(特に人と競うタイプ)は短命。

セロトニントランスポーターについて

セロトニントランスサポーターとは、セロトニンを再取り込するポンプのようなもので、これが多いと、セロトニンをどんどんリサイクルできる。セロトニンは「幸せホルモン」なので、これが多いと人は楽観的になる。逆に少ないと不安感が強くなり害を回避する傾向が高くなる。また、セロトニンは、戦う・逃げるという働きをするノルアドレナリンの力を抑える。だから、セロトニンが少ないと、戦わない・でも逃げないという行動をとることになる。つまり、我慢して我慢して最後にキレる、という行動になる。人種的に、日本人はセロトニントランスポーターが少ないタイプで、危機管理が強すぎるあまり、方向性の定まらない自由な発想の努力を「無意味」と切り捨ててしまう。江戸時代までの日本人のように、「遊びは粋なこと」と考え、人生を楽しくする為の努力を今の私達も心がければ、もともとの人種的なハンデ(セロトニントランスサポーターの少なさ)を乗り越えて、人生を前向きにとらえる事ができるだろう。

 

以上です。

 ざっと「努力」に関連する部分を拾い書きしてみた。ところどころ、主張に矛盾が生じているのが分かる。努力をしなければ機能が衰えていくだけなので、正しい努力(目的を定め戦略をたて確実に実行する)をしなくてはいけない、と冒頭で説きながら、そうなのか、と読み進んでいくと、「江戸以前の日本人は、大和魂は」という記述に入り、目的に向かって努力するなんて無粋、遊びこそ豊かな人生を作る、努力しなければ長生きできる、とまで語ってみたりする。その一方で、教養を求めて大学に行ったり、社会を見たくて就職した女性に対して、「最終的に結婚したいなら、若いうちに結婚する方向に努力すべき。目的意識をしっかり持ち、人生、賢く戦略を立てて生きなさい」と助言しておられる。専業主婦になりたい人は、大学で教養を深めたり、就職して社会を広く見たりしてる暇、ありませんよ、と。よそ見するな、と。

 よそ見こそ人生。遊びこそ豊かさ。と主張しておられる一方で、よそ見するな、無駄な動きはするな、とも仰る。

 読者としては、どっちが著者の本心なの?と戸惑うわけだが、そもそもどちらもタイトルの「努力不要」の根拠、ではないのだ。脳科学的根拠はもとより「努力自体が不要」だとすら一言も書かれていない。また、省略したが、努力とは関係のない脳科学情報や、著者の少子化への思い等にも相当枚数を割いておられた。良く言えば「盛りだくさん」、悪く言えば「散漫過ぎてまとまりがない」だ。

 実は「それはどうなんだろう?」と共感できない記述も少しあった。例えば、「学校で英語を勉強しているのに話せるようにならない問題は、学校で英会話を勉強させれば簡単に解決する」という意見が述べられてたが、実際問題英会話というものは、生徒40人に教師一人、という環境で学べるものではない。英会話は、ネイティブ並に話せる人間とマンツーマンで会話する事でしか、身に着かない。つまり学校で英会話を勉強させようと思えば、40人の生徒に40人の教師が必要になる。だから学校で英会話は学べないのだ。学校でできるのは、今の現状の読み書き発音が精いっぱいだと私は思う。

 また著者は、複数の殺人の罪で近く死刑を予定されている木嶋佳苗被告について「努力の仕方として完璧」と述べておられて、強く違和感を感じた。おそろしく身勝手な私利私欲を満たす為に効果的な作術を編み出して他人の心を操ったやり方を、「完璧な努力の仕方」と評価なさる。一方で、同じ本の中で、計算高い目的意識から離れて実質的には何の役にも立たない事に時間を使う事こそ豊かさである、と語っておられる。この方は、一体どこに軸足を置いてこの本を書かれたのだろうか、と不思議な気持ちになる。無駄こそ豊かさの証、と語った直後に、極端な実利主義を推奨なさる。せめて、「前述とは矛盾するようだが」の一言があればまだしも、そういう断りもないので、読んでいて引っかかってしまうのだ。

 この著者はきっと、サービス精神が旺盛な方なのだろうと思う。読んでいて「面白い・興味深い」と感じられるのはそのせいだと思う。できれば、内容に合致したタイトルをつけて頂ければ、また、ご自身の一方的な感性に走って現実を無視される傾向を控えて頂ければ、抵抗なく読めるのだが。その点が、残念だ。と偉そうな事を書いて終わります。

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