書くしかできない

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「招かれた女」ボーヴォワール

 お正月には何故か古典が読みたくなる。これはフランスの古典(多分)。

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 フランスの小説というのは割と性に合う。くどくど長々と心情を書き連ねているだけで、別段筋らしき筋もないところがいい。延々読んでいられる。楽しい。

 これも、上下巻の分厚い長編にも関わらず、筋らしき筋はない。時代背景は第二次世界大戦直前のパリで、主な登場人物は、新進気鋭の舞台監督兼俳優ピエール(推定35歳)と、その恋人で小説家のフランソワーズ(30歳)、そしてこの二人に寄ってパリに招かれた女グザビエール(推定18歳)の3人。

 ピエールは男気と才能に溢れた天才肌で、フランソワーズはボーヴォワール自身だと思われるが、感受性豊かで自立している賢く優しい女性として描かれる。ここに鶴のように細くしなやかな金髪美人グザビエールが入って来る事で、二人の均衡は崩れ、精神の葛藤が延々と続く。

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 グザビエールは、「素」で生きていると主張しているが実はそれは「我」を押し通しているに過ぎない。何に付け丁寧に遠慮がちで礼儀正しくかしこばっているが、いつもそれはその場限りで、次の日には手の平返したように失礼極まる対応を取る。例えば、会う約束をしても必ず時間に遅れる。それも1時間2時間平気で遅れておいて、会えばとことん控えめで礼儀正しく振る舞うし、ちょっとしたプレゼントを持ってきたりする。パリに来たところで自ら何かを学びに行く事もなく、しつこく誘ってもらわなければホテルの部屋から出ようともしない。誘われなくては、心から請われなければ、指一本動かさない、というのがグザビエールの在り方だ。自分のどんな行動にも、誰かからしつこく誘われたからそれに応えただけのこと、という大義名分を用意する。それによって、とことん我が儘を通しているのに、誰からも責められないように予防線を張る。「もう少し積極的になりなさいな」と年上の二人から言われると、「私はとことん情けないクズなので」と開き直る。

 若い頃、この小説を読んだ時、私は、何故フランソワーズ達が、グザビエールをパリに呼び寄せたのか分からなかった。もともとグザビエールはルーアンという田舎に住んでいたのを、二人はわざわざパリに住むように説得したのだ。生活費一式をフランソワーズが負担するという約束で。戦争が起こりそうなきなくさい状況で、どうしてそんな厄介を自ら招いたのか理解に苦しんだ。グザビエールはとても美しく若かったわけだけれど、とにかく我が儘で信頼がおけず、人を人とも思わない傲岸で冷たい人間なのに。何故二人はそんな女を、手元に置こうとしたのか。ただの気まぐれだったのだろうか。面白い玩具を手元に置きたい、ぐらいの気持ちだったのだろうか。

 若い頃、この小説を読んだ時は、私はグザビエールよりも年下だったから、3人の中ではグザビエールに感情移入して読んだ記憶がある。フランソワーズもピエールも、ひとくくりに「大人の人達」と片づけて、彼等の心情の流れなど、全く理解しようとも、理解できるとも思わなかったし、読んでいてもさっぱり興味も持てなかった。かといって、グザビエールに共感が持てたのか、といえば、これまた持てず。何故この小説を面白いと感じたのか、我ながら全く分からなかった。それでも、今まで読んで来た小説の中で、ダントツに面白いと思うし、こうやってお正月にわざわざ古い本棚を探して、読み直してみようとまで思わせる魅力を感じていたのだ。

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 今の私は、フランソワーズやピエールよりもはるかに年上で、もはや彼等の事を「若すぎて理解できない」ぐらいになってしまった。グザビエールなど、私の子供とほとんど同年代ではないか。そんな年齢になって初めて、以前分からなかった彼等の心情が、理解でき、何故そうしたのか、何故そう考えたのか、一つひとつが腑に落ちる。

  こまかく一つひとつを挙げていくことは不可能だけれど、例えば、「何故、二人はグザビエールをパリに招き、手元において生活の面倒をみたのか」という謎については、きっとこういう事だろうと思う。つまり、メサイアコンプレックスなのだ。人は、誰かにアドバイスする事で自分の価値を高めたいという欲を持つものなのだ。しかも自分のアドバイスの結果については、責任を持ちたくない。無責任な立場で、ただ神のようにアドバイスしたり、その対象の事を考えてやったりする事で、自己肯定感を高めたいのだ。だから、子供では駄目なのだ。子育てには責任が伴うから。何であれ、責任を持ちたくない彼等にとって、すでに成人しかかっている若く美しくちょっと面白い女を手元に置き、あれこれ教え導く事は楽しいだろうと感じたのだろう。ものにならなければ、また田舎に返せばいいだけのことだ。犬猫を育てるよりは手ごたえがある。しかし実際に生身の人間を相手にしてみたら、思いがけず自分も生の感情を引きずり出され苦しむ事になってしまったのだ。

 グザビエールが、気に入らない事があると、これみよがしに自傷行為をしたり(手の平に煙草の火を押しつけたり)自殺をほのめかしたりする事にも、以前は理解ができなかったのだが、今では分かる。彼女は鬱の傾向にある人なのだ。私は若い頃は、鬱という言葉すら知らなかったし、今のように心理学が盛んでもなかった。カウンセリングや自己啓発も一般的に聞かなかった。それでも、確かにメサイアコンプレックス的精神傾向の人も、鬱的傾向の人も、世の中には存在していた。だからこそ、私は、この小説を読んで「面白い」と感じたのだと思う。こういう不合理な人っている、こういう不合理な事ってある、それが何故なのか理由は分からないけれど、そういうものが存在する、と肌感覚で感じていたのだと思う。年をとった今は、理論理屈で理解できる。

 この小説は、メサイアコンプレックスのある人間が、鬱傾向にある人間を招いた事からくる悲劇を書いているのだ、と今読み返して分かった。覚悟も力量もないカウンセラーが、心に闇を持つクライアントに散々てこずらされている状況と同じなのだ、と読めばストンと腑に落ちる。

 登場人物3人はお互いにマウンティングし合うと同時に、お互いに嫉妬し合う。その心情が、上下巻2冊に延々と書かれている。ラストは、衝撃的ではあるけれども、必然でもあり、そうなるしかないと感じた。若い当時は、わけが分からず読んで、それでもとても面白いと思ったが、年をとってから読んでみて、あれこれ腑に落ちたがそれでも面白さは減じないどころか、更に面白いと感じた。

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