書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

どうしてフラットな前提に立たないのか

 最近流行りの「前提を変えれば幸せに生きられる」という説に、私は違和感を持っている。

 まったくの初心者であっても「すでにできている前提」でやれば成功するとか。恋人から「すでに愛されている前提」で交際すれば幸せになれるとか。どんな事も「うまくいく前提」でやれば失敗するはずがなく、どんな状況にあろうとも「幸せであるという前提」を持っていれば幸せであり、「お金持ちであるという前提」でいればお金持ちになるのだそうだが、、。

 そんな風に、超ポジティブな前提に立つ事で物事全てがうまくいく理由は、「怖れ」の気持ちを持っていると何事もうまくいかないから、だそうで。つまり、「怖れ」の気持ちを捨てる事が、人生をうまく運ぶ方法なのだとか。例えば恋愛関係で、相手から嫌われるかも、という怖れは、相手に対する不信感であり、自分に対する不信感(自信の欠如)なのだそう。恋愛において相手や自分自身に不信感を抱きながら行動する事は、相手に対して失礼であり、関係がうまく運ぶ筈がないのだそうだ。

 「前提派」を任じている恋愛カウンセラーの方に、こんな質問が来ていた。

「私は、よほど嫌でない限り、彼の意見を否定しませんし、よほどでない限り、私自身の意見は押し通しません。それでいいですか?それとも、『愛されている前提』に立って、もっと私自身の言いたい事をガンガン言っていったほうがいいですか?」

 その恋愛カウンセラーさんは、こう答えていた。

「『前提』というのは、『する』ことではなく、『ある』ことです。つまり、あなたが『すでに愛されている、そういう状態にある』という事が大事で、その状態のあなたが何を『する』のかは、その時々で選択すればいいのです」

 なるほど、一見、筋が通っているように見える。しかし私自身、よほどの事がない限り、夫の意見を否定しないし、自分の意見を押し通しもしないのだが、それは夫に対する(と同時に私自身に対する)不信感から来ているのだ、と言われたら、え?そうかな?いや違うけど、と思う。

 私は、夫に対してだけでなく、例外なく全ての人に対して、相手の意見を否定しないようにしているが、全ての人に対して、不信感を抱き私自身も自信を失っている、わけではない、と思う。

 私が、他人に対して、その人の言う事を否定しないのは、相手から嫌われたくないから(つまり相手は私を嫌っている前提)ではない。そもそも、どっちの前提でもない。嫌われている前提でも、愛されている前提でもない。どっちでもない。つまりフラット。

 私は、他人は私を嫌う事もあるし、好きになる事もある、というフラットな前提に立って生きている。どちらにも偏っていない。私が他人の意見を否定しないようにしているのは、好かれたいとか、嫌われたくない、とかそういう方面に注視してのことではなく、人はそれぞれ自分の正解を持っていると思っているからだ。私の正解と、相手の正解が異なる事は往々にしてあり、どちらも正解だと私は思っているからだ。世の中には人の数だけ正解がある、と思っているからだ。私の意見も正解だし、相手の意見も正解だから、あえて否定しに行く必要はない、と思っているからだ。

 人生は「うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない、どっちもありうる」というフラットな前提が、一番いいんじゃないかと私は思う。フラットな前提に立つと、当然、多少の「怖れ」は生まれるわけだけど、その「怖れ」は、必要な「怖れ」だと私は思う。「怖れ」のない言動は、無茶で無謀になりがちだし、結局のところ、無謀な行為は誰も幸せにはしないと思う。

 ただ、とても精神的に弱っている人が、期間限定で、一時的に、「うまくいく前提で」「愛されている前提で」行動する事は、効果的なのだろうと思う。いわゆる頓服薬として。でもこの考え方を、半永久的に生きている限り採用し続けるのは、よいとは思えない。

 子供に対して、どういう考え方で生きていけばいいのか教えねばならない事が最近多いので、このテーマはもう少し掘り下げて考えたいと思う。

 気が付いたら大晦日で、季節感の全くないブログにもほどがある、と思う。まあ、現実の生活は生活で送りつつ、ここにはそこに入らない、そこからはみ出たこぼれ落ちた気持ちを書く事にしているので、これでいいと思っている。良いお年を。