書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

「橋を渡る」吉田修一さん

(ネタバレあります)

 つきつめて言えば、クローン人間がテーマになっている小説だと思う。カズオ・イシグロの「私を離さないで」と基本的には同じ事を書いているように感じた。けれど、吉田さんらしい味は確かにふんだんにあって、そこがこの小説の魅力なのだと思う。

 吉田さんの魅力的な味というのは、代表作「パレード」からずっとそうだけれど、最初から四分の三ぐらいまでは、軽妙で小粋で洒落た、と同時に人間くさい弱さも合わせ持つ登場人物達に、ギリギリまでに最先端で現代的な日常を生きさせ、登場人物全員がいわば善人で、何をどうやっても憎めない人達で、現代風俗を描きながら普遍的な牧歌性のようなものを漂わせている事だと思う。それが、最初から四分の三あたりまで続く。ただ、ミステリー要素もアチコチに散りばめられているので、読み手は軽い謎解きの気分で、喉越しのよいビールを飲むかのうように軽快に読み進めていく事ができる。最初から四分の三あたりまでは。

 そして、四分の三を過ぎた頃に、くるっと変わる。白が黒に反転する。ネガがポジに反転する。善人だと思っていた登場人物達が悪人に反転する。それなりに平和だと見えていた日常が地獄に反転する。無邪気だと思っていたものが残酷さに反転する。ものの見事に。その「反転」が、吉田修一さんの小説の味であり魅力だと私は思っている。この小説も例外ではなく、その見事な反転にゾッとさせられる。

 けれど意外なことに、この本に限り、最後にもう一度、反転がある。反転というか、ある種の「救い」がある。「パレード」のような読後感の悪さはない。読者が何かとても暗い所に置いてきぼりにされる事はない。

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 この本とは関係ないが、クローン人間について、少し書きたい。

 クローン人間についての小説は、先にも書いたようにカズオ・イシグロの「私を離さないで」が有名だが、それ以前にもいくつも書かれているし(日本では篠田節子さんとか)、それ以後も書かれている。で、何故か同じ書かれ方をしている。つまり、クローン人間は人間以下の扱いを受ける、受難な人生を送らされる、という書かれ方だ。何故かと言えば、クローン人間は、人間が作ったものだから。人間が作ったものだから、人間が自由に利用していいし、人間が彼等の死さえ、自由に決める権利を持つ、という論理だ。つまり、クローン人間は、ロボットと人のちょうど間あたりに位置している、という風に描かれる。吉田さんの「橋を渡る」もこのパターンだ。

 でも、私はクローン人間に対するこの扱いに、いつも疑問を感じる。私は、生殖技術で生まれる人と、クローン技術で生まれる人との違いが、今ひとつ分からない。体内受精、体外受精、冷凍精子、冷凍卵子代理母。生殖技術は進み、本来子供が持てないはずだった人達も遺伝子を後世に残す事が可能になったし、選択的な授精が可能になった。つまり、極端な言い方をすれば、生殖技術によって、選択的に人間をつくる事が可能になったのだ、と言える。これは、クローン技術と、倫理的にどう違うのだろうか。私には同じ事に思えるのだ。生殖技術を使って生殖する事と、クローン技術を使って人間を生み出す事に、倫理的な差は無いと私は感じる。

 今、私の周囲にも、不妊治療に通っている方は多いし、不妊治療の末に無事に生まれたお子さんも多くいる。私は、自然妊娠の子供と、不妊治療の子供に、全く差を感じない。全く、全然、感じない。その子がかなりハードな不妊治療の末に生まれたと聞かされても、「大変だったんだなあ」と思うだけで、人としてどうこうは思わない。これは私だけではなく、全ての人がそうではないだろうか。不妊治療という、自然の摂理にある種反した生殖方法であっても、生まれてきた子供は「同じ人間」だと私達は感じる。今すでにそういう社会だし、そういう風に感じている。

 ならば、もし、その子がクローン技術で生まれた子供であっても、私達は「同じ人間」だと感じるのではないだろうか。クローン技術で生まれたからといって、「人間以下」だという扱いを、私達は、できるだろうか。少なくとも、私はできないと思う。

 これは、私が女だからかもしれないが、生まれてきた命は、全部等しく同じ価値を持つという風に感じる。どんな技術を使って生まれてきたとしても、命に価値の差はない、と感じる。だから、様々な小説でクローン人間達が、お決まりのように人間以下の扱いを受けているという風に描かれている事に、なんとなく違和感を感じてしまう。そんなはずはないだろうと思う。

 そして、であるけれども、だからといって人間は愛に溢れているか、他者に対してとことんフェアか、と言えばそんな事は全くないのは、昨今の難民問題を見れば顕著に分かる。自分の身を守る為なら、或いは、自分の身の安全を脅かす存在に対しては、人はとことん排他的になれるし、利己主義にもなれる。自国の親から生まれたクローン人間が自国に住む事は許せても、遠い国の難民が大挙して移民してくるのは許せない。そんな感覚はないだろうか。

 しかしながら、クローン人間が現実化する事はまずないだろう。だからこそ、小説のネタとしては面白いのかもしれない。