書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

知りたい、でも知られたくない。

 「自分の事は知られたくない」という、閉鎖的な人が一方にいて、「あなたは何を考えているの?あなたの本音は何なの?」と、質問ばかりしている人がもう一方にいる。両極端なようでいて、この両者は、同類なのだと感じます。

 何故なら、自分に不都合な事は巧妙に隠す人は、同時に、相手の言いたくない事を、無理に言わせようとする人だから。閉鎖的な人は、知りたがる人でもある、と思うのです。閉鎖的だから、知りたがる、とも言えるけど。

  友近さんのネタで、「防御する女」というがあるのですが、そのネタで、友近さんは防御する女を演じるんですよね。ひたすら「喋る」のです。何を喋るかというと、「自分がどれだけ万能か有能か」という事を、喋るわけです。どこから突っ込まれても、大丈夫なように、先手先手で防御するわけです。自分には一切の落ち度がない、引け目がない、という事を、先手先手で言い訳する。その極端さ、その誇張が、見ていて面白い、秀逸なネタなのです。

  防御する女というのは、何故防御するかというと、否定されたくないからだと思います。自分が人から否定されたり、人より劣っているという状態に、耐えられない。いえ、自分が間違っている、人より劣っているかもしれない、という事を、自分自身は分かっているんですね。でも、他人にそれを、指摘される事に、耐えられない。だから、他人に指摘されないように、先手先手で防御する。

 閉鎖的な人も、知りたがる人も、根っこは同じなんじゃないかなあ。自分が劣っている事を、自分自身は分かっていて、でも、それを他人に知られるのは、耐えられない。自分が自分を劣っていると思うのはいいけれど、他人から、自分が劣っている存在だと思われるのは、耐えられない。だから、閉鎖的になるし、一方で、他人が本音で何を考えているのかが、知りたくて仕方ない。

 結局のところ、他人軸で生きている、というありきたりの結論になるのでしょうが。

 

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  一方で。聞かれもしないのに、自分の事を人に知らせたがる人が、います。自分の事ばかり延々話す。自慢話だったり、巧妙なすり替えを行って、自分を正当化する話だったり。そういう人は、また、他人の話を、ちゃんと聞こうとはしません。他人のことには、興味がない。他人の話を聞く時は、相手が自分を誉めてくれる時だけ。もしくは、相手の話の中に、自分の説を後押ししてくれる部分がある時だけよく聞く。

 自分の事を人に話しまくる人の「自分」というのは、往々にして本当の自分ではなく、「人にこう思われたい」と思っている、「架空の自分」でたる事が多いです。自分を隠したい気持ちが高じて、いっそのこと、架空の自分を喧伝する事を選んでいるわけです。架空の自分を過剰に自己開示する事で、本当の自分を、二重三重に隠す事ができるから。

  一方で、人に質問したがる行為を反転すると、人の事に興味を持たない、という事になる。人に質問したがる人は、相手に興味があるから質問する、のではないのです。相手が、何を考えているか、が気になっているだけだから。相手の信条を聞き出し、本音をえぐり出し、それが、自分の説を肯定してくれるものかどうか、をチェックしたいだけなのです。相手の中に、自分を認めてくれる部分があるのかないのか、気になるのは、そこだけなのです。

 誰かが、自分のことを過剰に開示していたり、他人に興味を持たなかったりするからといって、その人が、自分軸で生きている、という事には、ならないと私は思っています。自分軸で生きる、という事は、自分で自分を好きでいる、という事に尽きるし、そういう状態であれば、自分の事を過剰に開示したり、また不自然なほど他人との間にピシャっとカーテンを下ろしたりする必要がないからです。

 

 結論を言えば。

 人の事を過剰に知りたがる人も、逆に他人には興味はないとばかりにピシャっとカーテンを下ろす人も、自分の事を過剰に言いたがる人も、逆に自分の事を不自然なほど隠す人も、みんな根っこは同じで、自分の事を本当の意味で好きではなない、という事になるのかなあと思います。自分が好きではないから、無意識に判断基準を他人に求め、他人軸になっていくのかなあと。

 長々と書いたわりには、当たり前の結論で申し訳ないです。。だから何?と言われたら、別になんでもない、と答えるしかないような話で失礼しました。

 

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