ある方のブログ記事に、下の本が紹介されていました。その本自体はまだ読んでいないのですが(そして多分読まないと思うのですが)、そのブログ記事に感銘を受けました(その本を読まない理由は、後で書きます)。
時々、人生に苦しんだ時、迷った時、人は「私の生きる意味は何?」と天に向かって尋ねてしまいます。「なぜ私は生まれてきたの?なぜ生きなきゃいけないの?」と。
でも、本当は、逆なのだと、この本の著者は語っているそうです。
- 作者: ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2002/11/06
- メディア: 単行本
- 購入: 48人 クリック: 398回
- この商品を含むブログ (369件) を見る
逆に、人生とは、生きるとは、天から常に、我々が問われ続けているのだ、という事。
与えられた運命に、苦しみに、出来事に対して、「お前はどう生きるのか?」と、逆に私達が、天から問われ続けているのだと。
それは状況、瞬間ごとに毎回問われ、私たちはその都度答えを出していく。それが人生であり、生きる意味なのだという事。
だから。
手ごたえのある充実した日々や、安逸な環境や、美や芸術や自然を存分に味わう機会に恵まれた人生だけに、意味があるのではない。仕事に真価を発揮する機会も、体験したり経験したりする機会も、皆無な人生にも、生きる意味はある。楽しく幸せな事だけに生きる意味があるのではない。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだ。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は完全なものになる。
そんな風に、先の本には書いてあるそうです。
深く納得しました。
結局のところ、彼はその信念のもとに収容所を生き延び、この本を著したのです。
私がこの本を読まないであろう理由は、収容所の辛い場面が刻銘に描かれているからです。そういうものを、読むのが本当に苦手なので、多分読まないだろうなあと思います。
でも、書かれている内容には、本当に胸を打たれたし、苦手な場面がいかに多かろうと、やはり本を手にとってみたい気もしています。
私は今まで、自分自身を幸せにする事に、生きる指針を得ようとして来ました。でも、そういう方向に考えて生きて来て、何か違う、おかしい、という腑に落ちなさも感じてきました。幸せは欲望と区別がつかず、追及しても限りがないからです。これが私の幸せだと思っていたその場所に到達しても、幸せはスッと先に逃げてしまう。
「自分自身を幸せにする事」が、生きる目的ではない、という事。
私達は、「自分自身を幸せにする為に生まれた」のではない、という事。
私達が生きている意味とは、「与えられた環境の中で、苦しみ、学び、考え、自分なりの正解を見つける為」である、という事。
言われてみて初めて、ああそうなのか、そうなのだ、と納得できました。ここには何の矛盾も腑に落ちなさもありません。その通りだと感じました。
この著者が、過酷な収容所を生き延びられたのは、この本を書く為、彼がアウシュヴィッツで気づいた真実を、広く知らしめる為なのだと思いました。古典と言われる本ですが、今だに読み継がれている理由が分かります。