書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

大丈夫の一言で救われる人ばかりではない。

 あまり書きたくないのですが、最近立てつづけてに起こっている嫌な事件について書きます。

 通学バス待ちの小学生が殺された川崎の事件で、犯人の人物像をテレビで掘り下げていました。「親に捨てられ、親身になって支えてくれる人がないまま育ち、仕事も続かず、人生を投げたひきこもり」という風に語られていました。ざっくりですが。

 そのテレビ番組の解説者の中には、カウンセラーの若い男性がいました。

 そのカウンセラーの男性は、元はシステムエンジニアをされていて、仕事のきつさから睡眠障害を発症し、時短勤務から解雇に至った、との事。解雇された時に、上司から「自殺しないでね~(薄笑い)」と言われて、「自殺はしないが、人は殺すかもしれません(真顔)」と返したとか。当時は、怒りと恨みの気持ちが強くて、人を殺したかったと。解雇された事をカウンセラーに相談したら「おめでとう」と言われて驚いた。「でも、無職になってしまいました。もう復職できる気がしません」と言ったら、カウンセラーさんは「無職にもそのうち飽きるから、大丈夫よ」と言われたそう。カウンセラーさんの「大丈夫」という言葉に救われて、その男性は、立ち直ったそうです。もし、その時、カウンセラーさんにそう言われていなければ、自分も川崎の犯人のように、人を殺していたかもしれない、と言っていました。

 それで救われたので、その男性も、今は自分もカウンセラーになり、かつての自分のような人に対して、「大丈夫」の言葉をかけているのだそうです。

 良い話、、、ですよね、きっと。

 そのテレビ番組でも、「あなたのようなカウンセラーさんが増えると、こういう犯人も減るでしょうね。あなたのようなカウンセラーさんが連携をとって、悩んでいる人を救ってあげて欲しい」とまとめていました。

 でも私は、なんとなくの違和感を、感じてしまいました。なんか、おかしい気がする。どこが?

 すごく考えてみて、結局、こういう事だと思います。

 その男性カウンセラーさんが「大丈夫」と言われて立ち直れたのは、「たまたま」ではないか?と。

 もともと大丈夫な人が、ブラックに近い企業でこき使われて疲弊し、心身の調子を崩して病に陥り職を失い自暴自棄になっていた、そういう状況なら、誰かに「大丈夫」と言われて、我に返り、「そうだ、自分は大丈夫なのだ」と前向きに気持ちを切り替えていく事ができたのではないか、と。もともと大丈夫な人だったのだから。

 でも、その人に「大丈夫」と言ったカウンセラーさんには、何の根拠も見通しもなかったわけです。言い方は悪いですが、無責任に「大丈夫」と機械的に言っていたのだと思います、誰にでも。たまたま、本当に大丈夫な人ならその言葉で立ち直っていくのだろうけれど、大丈夫じゃない人に言ってしまったら、どうなるのか。

 川崎の犯人のように、そもそも悪状況で生育された人。というか、両親は離婚の際、どちらも彼を引き取らなかった(叔父夫婦に押し付けた)事を考えると、子供の頃から何かしら育てにくい一緒にいられないしんどい子供だったのだと思います。おそらく何らかの生まれつきの障害を負っていたのだろうと思われます。生まれつきの障害にプラス、悪い生育状況が重なり、本人の立場に立って丁寧に支えてくれる人間を欠いたまま大人になり、当然仕事も続かず、自暴自棄になっていった犯人。

 こういう、「本当に大丈夫ではない人」に、無資格の(経験も知識も低い)カウンセラーさんが、安易に何の根拠もなく「大丈夫よ」と声をかけることは、正しい対処なのだろうか。

 こういう「本当に大丈夫ではない人」には、成育歴から戻って根気よくカウンセリングをし、その人の心の闇を一つひとつ取り除き、実際に働ける職を一緒に考え探し、必要なら訓練も受けさせる、という、長いスパンでの関わりという手間暇が必要だと私は思います。

 「大丈夫よ」の一言で解決するのは、本当は大丈夫な人が一時的に調子を狂わせてしまったケースにのみで、それはそんなに多くはないと思います。むしろ、今増えているのは、もともとの難しい特質にプラス(特質故というか)悪い生育環境が重なった上に社会に対する恨みつらみが打ち重なった人で、こういう人には、「大丈夫」の一言は何の解決にもならないと私は思います。

 むしろ、大丈夫ではないのに、大丈夫と決めつける事のデメリットのほうが、大きく出てしまうのではないかと危惧します。

 

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夕方のお散歩が楽しい季節になってきました。風がとても気持ちいい。そして綺麗な夕空。この風が吹き続ける限り、何時間でも歩いていられる気がします。