書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

自分の無能さは、負荷がなくては分からない。

 ぼわーっと頭に浮かんでいる事を、手繰り寄せ、手繰り寄せ、書きます。

 今日は、「自分の無能さは、負荷が無くては分からないなあ」という事を、つらつら考えていました。

 どういう事かと言うと、子供がいなければ、子育てに対する自分の能力の無さには気づけなくて済む、という事。経済力があれば、仕事に対する自分の能力の無さには気づかなくて済む、という事。誰か家事をしてくれる人がいれば、家事に対する自分の能力の無さに気づかなくて済む、という事。

 つまり、自己認識として、「自分は出来る人間だ」と思っていたとしても、それは、ただ単に、自分に出来ない事をしなくてすむ人生だから、と言えるのではないか、と思うわけです。

 大人にとっては、子育て、仕事、家事、が三大負荷だと思われます。細かく見ていけばまだまだあると思いますが。人間関係構築とか。でもまあ、大きくはこの3つ。

 だとすれば、子育ても仕事も家事も、全部やらなくていい立場の人は、自分の無能さには気づかずに一生を終える事が出来るわけだな、と思うのです。

 そんな人いるか?と言えば、いますよね。一昔前の有閑マダムのような。家事育児は家政婦乳母任せで、金儲けは夫に任せ、趣味に優雅に生きているような人。こういう人にだって悩みはあるだろうけれど(健康面とか)、少なくとも自分の無能さに苦しむ事は無いだろうなあ。

 気楽に生きようと思えば、だから、できるだけ負荷の無い道を選ぶにこした事はないわけで。

 でも一方で、「人生はチャレンジしたほうがいい。後悔だけはいけない」みたいな事もよく言われます。チャレンジしなければ後悔するかもしれないけれど、チャレンジして負荷を自ら取りに行けば、もれなく無能感もついてくる。そこのところ、どう考えたらいいんだろうか。

 まあ。個人の自由選択と言えば、言えるのかなあ。

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 息子なんかにチラッと聞いてみると、やはり「チャレンジしたい」と言うのですね。職業なんかも今、シビアに考えていますが、かなり無理めなところを目指しています。チャレンジしたいから、だそうで。

 「この子は障害が重いので、小学校には行けない」と言われていた記憶が、私にはまだまだ残っているので、そんな上を目指すなんて、やめてくれ~と思うのですが、本人は楽しそうで、嬉しそうで、止められません。

 チャレンジ=負荷、だと思うのですよね。

 まあ、実際に目指してみて、無理だと気付いてから止めてもいいなとは思いますが、そうすると、無能感に苦しむのだろうな、と今からかわいそうに思ったりします。

 そんな上目指さなければ、無能感を抱く事もなく人生を送れるのに、と残念に思ったり。

 でも、子供というのは、チャレンジしたいものなんですねえ。上に行きたい欲がすごく強い。他人と自分を比較しない(他人には無関心な)息子でさえ、そうなのだから、普通のお子さんだともっとすごいのでしょうか。

 私なんかもう50代なので、負荷なんか一つもいらない、と思ったりします。チャレンジなんかもってのほか。自分の無能さは、自分でよくよく分かっているもの。こんな無能な自分でなんとかかんとか生きてこれた事が奇跡で、これからもこの奇跡が続いてくれることを祈るのみです。

 

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