書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

自分責めの弊害

 私のブログを読んで下さる方のお話を伺って、ふと不安に思ってしまったので、今日はその事を書きます。

 その方は全く問題ないと思うので、その方のことを書くわけではなく、私がどうして不安に思ったのか、そこを書きます。その方を通して、私が勝手に不安になったのであって、その方には何の問題もない、という事は強調させて下さい。

 

 自分責めというのは、とても後ろ向きな事だなあと私は思います。

 「私はこうすべきだ」という理想形がありまして、でも何らかの理由でそれが出来ていない時に、出来ていない状況をそのまま知らんぷりしているのは、相当しんどい事ですが、出来ていない状況に対して「私は出来ていない、駄目だ」と自分責めを行っていると、そのしんどさが緩和されます。

 自分は何もしていないわけじゃない、自分のやるべき事に背を向けて逃げているわけじゃない、ちゃんと「自分責め」している、と思えるからです。

 でも私は、自分責めをしている間は、実は何もしていないのと同じだと思うのです。心の中でどれだけ自分を責めても、実際には何も行動していないのなら、それは「何もしていない」という事だからです。

 むしろ、先に書いたように、「何もしていない」しんどさを緩和する為に「自分責め」を行っているので、自分責めを行わないよりも悪いです。自分責めを行わなければ、何もしていないしんどさに耐えきれず、前向きに動き出す可能性もあるのに、自分責めを行う事で、それで前に進んでいる気になれるので、実際には何もしていなくても、している気になれるからです。つまり、「自分責め」をしている限り、永遠に、すべき行動ができない、よって現状は変わらないかもしくは悪化していく、という事です。 

 自分責めをせずに前進してく為には、まず自分ができる事、とても小さな事でもいいから、確実に出来る事をやっていくしかないと思います。自分を責めている暇があるなら、まず出来る事をやる。

 どうしてもそれすらできないなら、「自分はそれについて何も出来ない」という事を自覚し、自分責めを止めなければいけません。勿論それは、自分が出来なくても少なくとも他人に迷惑をかけない状況、もしくは、自分の責任の範疇外、の事に限ります。他人に迷惑をかけている、またはそれが自分の責任の範疇内である、のなら、「自分は出来ない」と逃げているわけにはいきませんが。 

 こんな事を書きながら、私もよく自分責めして自分を甘やかしております。自分責めは時に癒しになります。自分責めはとても心地いいのです。だからこそ、自分責めに耽溺せずに、少なくとも弊害がある、という事を、肝に銘じておきたいと思っています。

  ここで最初に戻りますが。もしかして、私のブログをお読みになっておられる方の中に、私のブログを自分責めの材料にされている方がおられるかもしれないなあ、と、私は不安になったわけです。その事について私は何も言う権利はないのですが、少なくとも私が書いている事だけが正解ではないので、そもそもご自身を責める必要は全くない、という事だけは言わせて下さい。

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 う~ん。何のためにコレ書いたんだろう?我ながら分かりません。書かねば!と思って急いで書いたのですが、もしかしたら、書く必要がない事だったかもしれません。後で反省して、消すかもしれません、、、。