書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

参拝こぼれ話と、自分に正直になるという事について。

 先週、いくつか神社を参拝したのですが、その時に思った事を今日は書きます。

 まず、北野天満宮で(参拝した時の記事はコチラ↓) 

oinor-i.hatenablog.com

  この時、パラパラと雨が降っていたのです。強い雨ではなかったので、傘をさしている人もいたし、さしていない人もいました。私は濡れるのが苦手なので、小さな折り畳みの傘をさしながら、梅園を歩いていました。どの梅の木もまあかわいくて、感動しながら歩いていたら、すぐ横の木に小鳥がとまりました。黄色がかった緑色で雀より少し大きいくらい。写真に残そうとスマホを取り上げたら、おっとっと、、、、スマホを落としてしまったのです。片手に傘を持っていて、反対の手に鞄を持っていて、両手がふさがっているのに写真を撮ろうとしたのが間違い。

 私は歩道にいたので、地面は硬いアスファルト。立った状態で落としたので、かなりの高さから落としてしまいました。私はスマホにカバーもしていません。

 壊れたかも、、、とおそるおそる拾って見たら、スマホは無事で壊れてなくて、傷一つついていませんでした。

 私はわりと慎重な人間で、今までスマホを落とした事がないので分からないのですが、この程度なら壊れないものなのかもしれませんが、それでも、壊れなかった事が有難かったです。ああ守られてるんだなあ、と思いました。私は今、神域にいるんだなあと。

 (こじつけかもしれないけれど)守られていると実感すること、そして感謝する事って、安心感を積み上げていきます。私がちょこちょこ参拝する理由は、こういう所にもあるのかもしれないと思った出来事でした。

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 あと、八坂神社に行った時は、参拝を終えたら、目の前の木に大きなカラスがとまっているのが見えて、「ああ、カラス」となんとなくずっと見ていたら、私が見ている事を確認したように、カラスはさーっと山(八坂神社の向こうは山)に飛んで行ったのでした。その後、境内の桜の写真を撮っていたら、今度は足元に鳩が来て、本当に私の足元のすぐ側まで来て、そこにいるのです。あいにく、クッキー一枚持っていなくて「ごめんね、あげれるものがないのよ」と言っても逃げて行かず、しばらくそこで二人(?)で佇んでおりました。鳩ってそんなにすぐ側まで来るもの? というか、あの日の八坂神社はすごい人混みで、カラスは当然ですが、鳩も他に一羽もいなくて、何故この子だけここに? こんなに人が多いのに、、。踏まれるよ~と心配になるくらいで。

 八坂さんではそんな事がありました。意味は分からないのですが、なんとなく嬉しかった出来事でした。

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 大阪の生國魂神社では、思いがけず「平」のおみくじをひいた事が記憶に新しいのですが、その平のおみくじを持って、拝殿向かって左側のベンチに、ぼーっと座っていた時のことです。いつものように、鞄から桜井識子さんの本のコピーを取り出して、生國魂神社のところを読んで、それからぼんやりまた目の前の拝殿を眺めておりました。

 ら。

 なんか、目の前に神様がいらっしゃるのが、ぼんやり分かったのです。多分、ほぼほぼ気のせいだと思うのですが、先ほど読んだ桜井さんの記述通りの、白い髭のおじいさんの姿の神様が、目の前の木の所に立って、こちらを見ておられるのを、感じました。

 うすぼんやりと、シルエットが煙のように見えるというか、そういう感じでした。

 気のせいですよ。勿論、私自身も分かっています。ですが、もし桜井さんに「はい、この境内に今、神様がおられます。どこでしょー?」と質問されたら、「あの木の前です」と答えたくなる、そんな程度の確かさで、あああそこにおられる、と思ったのでした。

 神様を見るってこういう事なんだなあ、と思って。もう二度と見れないかもしれないし、見れたと思ったのが勘違いだろうけれども、それでも、勘違いでもいいから経験できて良かったなあ、嬉しいなあと思いました。

 先週参拝した時の話は以上です。

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 えっと実は、まだ書きたい事がありまして。神社とはまったく関係ない事なのですが。

 よく「自分の心に正直に行動しましょう」とか「素直が一番いい」とか言いますよね。私も、特に心が弱った時など、星占いなどで「今日は自分の心に正直に行動するとよいです」等という文言を見つけると、ついつい「そうか。。正直になっていいのか」と真に受けてしまいそうになります。

 でも。「自分の心に正直になる」って、そんなに良い事なのだろうか?と思うのです。

 もちろん、自分自身にとっては、良いというか、ラクなことだと思います。正直に、思った事を言う、思った事をする。嫌なものは嫌と言う。嫌いな人には嫌いと言う。相手が間違っていると感じたら「あなたが間違っている」と言う。謝ってほしいと思ったら「謝って下さい」と言う。ああしてほしいと思ったら「ああして欲しいです」と言い、やめて欲しかったら「嫌だからやめて下さい」と言う。嫌な思いをしたら「私は嫌な思いをしました」と言い、傷ついたら「私は傷つきました」と言う。

 でも、それ、言われた側はどうなのだろう?

 言われた側は、しんどいですよね。

 自分に正直に生きると、自分はラクだけど、周囲をしんどくさせる事が、往々にしてあります。だから、自分に正直に生きるのも程度問題で、いつもいつも、何でもかんでも、正直であればいい、というものではないと私は思うのです。

 自分に正直になる事で、人を傷つける事って多いと思うから。

 自分の気持ちを常に押し殺して、我慢に我慢を重ねてしまうと病気になってしまうから、そこはバランスだけども。「自分に正直になる」って言葉はポジティブな意味でよく多用されるけれど、決してポジティブ一辺倒ではないなと個人的には感じます。

 あちこち飛びましたが、今日は以上です。

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