今日は曇って寒い日ですね。どこにも行かずに家でぬくぬくしております。そのせいかどうか、今日は、ものすごくぼんやりした事を書きたくなったので、書きます。
あなたは転んでしまいました。結構痛いけれど、立てないほどではない、という状況です。その時、そばにいた人に「大丈夫ですか?」と聞かれたとします。
あなたの転んだ感覚では、大丈夫ですか?の問いかけの意図が、痛いですか?ならイエスだし、立てないほどヤバいですか?ならNO、という感じ。
こんな時、あなたはどう答えますか?
私は、どっちで答えても良いと思うのだけども、どっちで答えたとしても、どっちにしろ自己憐憫に浸る人は、駄目じゃないかと思っています。
どういう事かというと。
「大丈夫ですか?」と聞かれて、「大丈夫です」と答えたのだけれど、本当はすごく痛い。強がって、相手に心配かけたくなくて、こういう時に自分は必ず大丈夫と答えてしまう。痛い時は、痛いと言えばいいのに、駄目な私、みたいな。
或いは。
「大丈夫ですか?」と聞かれたので「大丈夫じゃないです」と答えたら、相手は対応に困っている。助けてくれないなら、聞かないでよね。大丈夫じゃない、って言ってるのに、助けてもらえない私って可哀想、みたいな。
どうしてどっちも駄目だと私が思うかというと、どっちも、「大丈夫ですか?」と聞いてくれた人への感謝の気持ちがないから。
どっちも、私、私、私、しかないから。
聞いてくれて有難う、という気持ちがまずあれば、「強がりな私は可哀想」「助けてもらえない私は可哀想」とは、ならないと思う。相手は、こちらの状況を知りたくて「大丈夫ですか?」と聞いているのだから、大丈夫かどうかだけを答えてそれで終わり、ではなくて、こちらの状況を丁寧に説明するべきだと分かると思う。
つまり。「大丈夫ですか?」と聞かれたら、「有難うございます。相当痛いですが、なんとか立てそうです」と、自分の状況をきちんと相手に伝えようと思うと思うのです。相手への感謝があれば。そしたら相手も、その返答に対して、適切に動いてくれるはずです。
丁寧に答えるのは面倒だし大変だけど、感謝の気持ちがあれば、答えられる、というか、答えたいと思うはず。
こういう事って日常生活でも沢山あって、相手から聞かれた事に対して、ごくシンプルに一言だけでスパッと答えるのがカッコいい、みたいな風潮がある気がするけれど、本当は、丁寧に答えるのが親切だと私は思うのです。親切というか、心がある対応だと思う。
自分が心のある対応をすれば、相手に対する不満もあまり起こらなくなると思うのです。
一言でスパッとシンプルに答えて、後の解釈は相手任せ、というのが、一番自分がラクだし、どういう結果になっても、悪いのは相手で、可哀想なのは自分、という風にできる。
でも、そういう対応は、心が無いし、トラブルのもとだと思うのです。
必要以上に、ダラダラと自分の状況を説明し続けるのは論外だけれど、相手が知りたい状況だけはきちんと説明するように心がければ、コミュニケーショントラブルは、あまり起こらないと思うのです。トラブルって、どちらかの(或いは双方の)説明不足から起こる気がします。説明不足って、どこか責任逃れの意識があるんじゃないかと思います。その「逃げ」の気持ちが、トラブルの元じゃないかなあ。
今日はぼんやりした事を書いてしまいました。分かりにくかったと思います。すみません、、、。