書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

豊かさ⇔シンプルさ

 三学期が始まってから10日ほどが過ぎました。中に三連休がありましたが、それでも、心身ともに「ああ、ラクだ」と実感しております。

 やはり、息子が学校に行ってくれると、私はラクになります。

 一方で、息子の担任の先生は、三学期の始業式の日、クラスに向かってこんな事を言ったそうです。

 「みんな今朝は、また学校に行かなければならない、と思って暗かったと思う。僕も朝から、また学校が始まると思うと、本当にしんどかった。でも、がんばろう」みたいな。

 正直って言えば正直だけど、先生が生徒に言う言葉?と思ってしまった私は、古い人間なのでしょうか。でもまあ、そうでしょうね。

 子供が家にいる期間は、親が大変。子供が学校にいる期間は、先生が大変(そして、その親や先生次第で、子供はどちらも大変だったりする)。

 結局、子供って、大人にとってお荷物なんだなあ。そして、自分がお荷物である事が子供自身にとってもしんどいことで。生まれた瞬間から誰の世話にもならず、オギャーと言ってすぐにスタスタ生きていけたら、子供自身もラクでしょうが、そうはいかないので。子供自身も不本意ながら、大人に頼らねば生きられない。

 

 いえ。私も息子がかわいいし、精一杯の事はしてやりたいと常々思ってはいるのですが、それと、息子が家にいる間の日々の面倒くささはまた別のお話で。先生もきっと同じなのだろうなあ。生徒達を教育する仕事は好きだけれど、生徒達と日々過ごす面倒くささは、また別という。

 子供を育てるということは、ものすごい面倒くさいこと。自分の事なら、程度の差こそあれ努力はそのまま成果に繋がるけれど、子育てにおいて努力は空しく消えていく場合が多い。かといって努力しないわけにはいかない。頑張って頑張って砂で城を作っているよう。作っても作っても波に流されて消えてしまう。面倒くさい、というより、それは極端にしんどいこと。

 自分だって子供だったのだから、お世話されて大きくなったのだけれど。私の時代は、親は今ほど子供の面倒はみなかったから。今でいうところの、放任放置に近い子育てが、以前は普通だったから、自分が親からしてもらった事と、自分が子供にしてやっている事のギャップが甚だしい。

 また、私の時代の親は、子供に自分のうっ憤をぶつけるのも普通でした。夫や義実家の愚痴を子供に散々言うとか。子供は気を遣って「お母さんは悪くない。アッチが悪い」と自分の肩を持ってもらって溜飲を下げる。今の親って、そういう事は控える人が増えてきたと思います。今の親は、自分のストレス発散に子供を使う、という事をしないように心がけている人が多いと思います。当然、その分、親自身にストレスは蓄積するわけですが。

 そう言えば、私の時代は、家だけでなく学校でも、体罰は普通にありました。教師は、気に入らない生徒は平気で殴っていましたし、それを責められる風潮はありませんでした。教えるほうもラクだったと思います。今の先生は、生徒に言う事を聞かせる為に、持つ武器が「内申点」以外ないです。私立では、受験に内申を考慮しない高校大学も多いから、絶対的な武器とは言えません。今の先生は大変。

 そう言えば、就職先として、教師人気がガタ落ちで、教育大や教育学部のある大学で合格率が1.0倍を切ったところも出てきたのだとか。受ければ受かる、誰でも受かる。公立はともかく私立なら、誰でも先生になれる時代が来るのかも(来たのかも)しれません。

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 お正月、夫や子供と実家で食事して、家族がいるのは贅沢なことだな、と実感しました。夫がいる。子供がいる。母がいる。そういう世界で生きていることに、豊かさを感じたのです。

 でも、この豊かさをキープする為には、それ相応の努力や犠牲が必要だという事もまた、しみじみと感じます。この努力や犠牲は、得られる豊かさに、ペイしているのだろうか、、、と、ふと考えてしまうのです。

 断捨離ばやりで、シンプルさが支持される時代です。結婚しない人、子供を産まない人も増えました。それが悪いわけでもないし、モラルやきれい事で人は動きません。こういう流れは、自然な成り行きなのだろうと思います。

 きれい事の世界では、「シンプルさの中に本当の豊かさがある」的なことを言うのでしょうが、、。私はきれい事が苦手なので、そういう風には考えません。

 それなりの煩雑さ苦労努力を持ってしか、「豊かさ」は実らないと思っています。放っておいて美味しい作物が実らないように。

 作物が実るのは自然の摂理なようですが、実はそうではありません。畑に作物を植えても自然のままに放っておいたら、畑はいずれ虫や草に負けて消えていき、シンプルな叢(くさむら)に戻ります。作物を美味しく豊かに実らせようと思えば、自ずとそれなりの「手間ひま」が必要となるのです。

 シンプルな叢で由、とするなら、自然に任せ何も世話しなくてそれで良いわけです。一方、そこに豊かに作物を実らせよう(子供を育てよう)とするなら、手間ひまかかる事は覚悟しなければいけません。

 畑を作ったのに、「シンプルが一番」と自然任せに放置したら、畑は消えてしまいます。もともと、そこには何も無かったのだから。

 そんな事を考えていると、子供が家にいる時も、あまり面倒に感じなくなります。手間ひまかかるのは当たり前、手間ひまかけないと育たない、という事が、子供の成長の中に実感として感じられるのです。まあこんな余裕な事も、三学期が始まったから言えるのかもしれません(苦笑)。春休みになったらまた、このブログで愚痴を呟いていることでしょう、、。

 

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