書くしかできない

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良いスピリチュアルと、悪いスピリチュアルの見極め方

 先日、「知らない事の怖さ」という記事で、下記↓の二つの記事を引用させて頂きました。

「スピリチュアル女子」をあざ笑うすべての人に言いたいこと(小池 みき) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

やや日刊カルト新聞: 【論評】スピリチュアル批判が分断を招くって?

 引用の目的が「今や怪しいスピは忌避される方向にある」という事の証明だったので、二つの記事の内容には、深く触れずに終わりました。

 今日は、この二つの記事の内容について、がっつり触れていきたいと思っています。

 というのも、この二つの記事、実は相反する事が書いてあるのです。共通して背景には「スピは忌避されつつある」というものがあるのですが、どうやったら更に徹底して忌避できるのか、という問題に対して、二つの記事は真逆の事を書いておられます。

 上の小池氏の記事では、「スピの全てが悪い、という言い方は間違っている。一事が万事、ではない」と主張されています。一方、下のやや日刊カルト新聞では、「一事の内容が深刻な場合、一事が万事と考えるべき」とされています。

 小池記事の上記論旨が書かれた部分を、勝手ながら引用させて頂きます。

何かと言及される人気子宮系指導者の“子宮委員長”はる氏も、「常にジェムリンガを膣に入れていろ」などとはけっして言っていない。「子宮系に近づくな」ということを言いたいがためにジェムリンガを振りかざし、「こんなに変なことばかりしている、まともでない人たちなんですよ」と言うのは、簡単に言えば「誇張した脅し」だ。そしてこういう脅し方は、「スピリチュアル予防」としては弱い。なぜなら、それは端的に、事実とは異なっているからなのだ

 これはどういう事かというと、子宮委員長はる氏が、初期の頃の一時期、「子宮にジェムリンガを入れっぱなしにする事」を推奨し、そのジェムリンガを販売していた時期があるのです。丸一日以上入れっぱなしにしなさい、と。そのせいで膿のような分泌物が大量に出てきたら、それは子宮が浄化されつつある、という事だ、と。 さすがにこういうトンデモな説を、彼女は今は言っていません。売出し中の初期の頃、インパクトを出す為に、仰ってみたのだと思います。

 で、彼女を批判する人は、こぞって彼女が過去「ジェムリンガを子宮に入れっぱなしにする事を推奨した」件を、出してくる。これはとても分かりやすい批判論点だから。それに対し、小池氏は、「今は言っていないし、そもそも、365日ずっと入れっぱなしにしろとも言っていない」と反論しておられるわけです。そして「ジェムリンガの間違った使い方を推奨したからといって、その1点だけで彼女の全てを否定するのは無理がある」と主張されています。

 

 一方、これに反論されたやや日刊の記事は、以下の通りです。引用させて頂きます。

メソッドの一部が過激なだけなら、その人物や団体のスピリチュアル・ビジネスに問題はなく、その一部の問題を指摘するのは間違っている」

この命題は真だろうか。

具体例で考えるとわかりやすい。オウム真理教が、サリンを撒く以外に一切悪いことも過激なこともしていなかったとしたら、警戒する必要がない安心な存在だろうか統一教会霊感商法などで多数で多額の被害を出していても、震災被災地でのボランティアなどいいことをしていれば「いい団体」と言えるだろうか。

昔、ある偉い人がこう言った。

「いいことをしても所詮カルトはカルト」

問題が「一部」であるかどうかは関係がない。その「一部」が深刻な問題であるかどうかが重要だ

逆にカルトの側は、問題の存在を「一部に過ぎない」かのように主張し矮小化する。

「一部」の問題を指摘する批判が予防に役立たない場面があるのは、その批判が間違っているからではない。カルトあるいはスピリチュアル・ビジネスの側が小池氏のような論理で自己正当化し、その論理にビリーバーを依存させるからだ。あるいはビリーバー自身が、自分の間違いに気づきたくないがためにその論理に自らしがみつく。

人は、特定のスピリチュアル集団にかかわらなくても生きていくことができる。スピリチュアルが好きなら、より問題のないスピリチュアル団体に行けばいい。特定の組織に所属する「いわゆる宗教」に比べて、この柔軟さはスピリチュアル文化のいい所とも言える。

しかし深刻な被害を受けずに関わるには、思考停止せずに判断するリテラシーが欠かせない。問題を「一部に過ぎない」とする論法は、むしろビリーバーのリテラシーをよりいっそう後退させ思考停止へと向かわせる」

 こちらは私の補足説明はいらないと思います。そして、私はこちらのほうが説得力のある説だと感じました。

 常に、一事が万事、ではない。でも、その一事が深刻なものである場合には、一事が万事は適用される。

 小池氏の例を使うなら。

 確かに子宮委員長はる氏は、今はジェムリンガについて言及されていないし、かつても「365日入れ続けろ」とは言っていません。が、「過去の一時期、信者に対し、『自らの子宮にジェムリンガを丸一日以上入れ続けろ』とは言っていた」のです。彼女のこの言葉によって、少なくない信者女性が膣の健康を害した事は間違いないでしょう。

 これは、深刻なケースに当てはまると私も思います。

 「他人の健康(幸せ)を害すると分かっている事を、あたかも健康(幸せ)になる手段かのように推奨する」事を、一時でもやった人を、信用してはいけないと思います。やや日刊ではこの事を、サリン事件を引用して説明されていて、とても分かりやすかったと思います。

 

 スピリチュアル(心理学、自己啓発、、、)の全てが悪いわけではなく、良いものもあれば、悪いものもあるわけです。どうやって、良いものと悪いものを見極めたらいいのか、その判断基準の一つとして、この考え方を持っておきたいと思いました。

 つまり「他人の健康(幸せ)を害すると分かっている事を、あたかも健康(幸せ)になる手段かのように推奨する」事を、自らの利益の為にやった教祖の掲げるスピリチュアル(心理学、自己啓発、、、)は、悪いほうに分類すべきだという事です。

 たとえ、その教祖がそれを言っていたのが過去の一時期だけだとしても、また、それがその教祖の教義のほんの一部であったとしても、その一事が深刻な内容の場合は、「一事が万事」を採用するべきであろう、という事です。

 今、スピリチュアル(心理学、自己啓発、、、)が世の中から忌避される流れになっていますので、良いものを実践している人が、自信を失うとしたら残念です。良いものと、悪いものとを見極める方法として、上に書いた視点は、有効だと私は思います。