書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

夫が変わった件、と、「発達障害という総称」について。

 最近、夫が変わったなあと思います。休日、私が二度寝をして起きてくると、キッチンの流しに置いてあった食器が、綺麗に洗ってくれてある。土日、土日、ずっとそう。一言も頼んでいないのに、自発的にやってくれています。

 テレビを観ていたり何かをしている時に、私が話しかけてもまともに聞かない人だったのですが、私が話しかけた瞬間に、テレビを消してくれるようにもなりました。そこまでしなくても、音のボリュームを下げるくらいでいいのだけれど。いずれにしても、これも私は一言も頼んでいません。勝手に自分で気づいて、ある日突然やり始めました。

 帰宅時も、ちゃんと「ただいま」と言ってリビングに入ってくるようになりました。以前は、「ただいま」を言わない人だったのです。私の感覚だと、こっそり帰って来てこっそり私の後ろに立っている、みたいな、されるこちら側としては毎回びっくりするので本当に嫌だったのですが、それも、なくなりました。「ただいま」って言ってね、などと頼んだ覚えはないのだけれど。

 来年2月か3月の平日、息子と二人で旅行に行く話をしたら、以前だと絶対に怒っていたのに(自分も行きたいから)、今回は、行き先の相談にまで乗ってくれました。驚き。息子の学校は、2月と3月は休みが多いのです。受験がらみで。なのですいている安い平日に二人で3~4日旅行するつもりで、あれこれ今楽しく予定を作っています。夫は平日は休めないので、お留守番。それに、今回夫は、不機嫌にならないどころか、あちらからアイディアなど出してくれる。いや、夫、変わりました。

 夫が変わった点は、まだまだ沢山あるのだけれど、何故なんだろう。何か考えるところがあったのだろうか。良い方向への自発的な変化なので、嬉しく見守っています。

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 話が変わりますが、今日もまた、発達障害関連の事を少し書きます。

 私の息子は発達障害です。発達障害は1000人いたら1000通りのタイプがあり、まったく同じ障害特性を持った人は、いない、と言われています。

 それゆえ、「私は、他の発達障害者とは違うのだから、『発達障害』とひとくくりにされたくない。私は私。周囲の人に、『私固有の障害特性』を理解してもらえたらそれでよくて、世の中全体に『発達障害』を広く認知されたくない。だって、私はその『広く認知された発達障害』の枠には入らないのだから」と考える方がおられます。

 理解はできるのです。確かに、隣りの発達障害者と自分とは、全く違う障害特性を持っているのに、「同じ発達障害者」とひとくくりにされたくない、とか。本に書かれている発達障害者や、テレビに出てくる発達障害者と、自分とは、全く違うのに、「発達障害者って、みんな、ああなんだろう」と思われるのも気に入らない、とか。分かります。

 でも、何かの集団を考える時、「100%同じものだけを集める」のではなく、「何かしらの共通点を持ったもの」を集めるのが、総称する、という事なのです。発達障害者も、一人一人は異なっていても、「生まれつき独特の生きづらさ(それは個々に異なるが)を持っていて、一生治る事はなく、自力で対処できない」という共通点を持った人達の総称、と考えれば、多少は納得できるのでは、と思います。

 例えば、「野菜」という総称があります。トマトとじゃがいもと人参とアルファルファでは、特徴が個々に異なっていますが、「人の体の調子を整える」という共通点を持っている。トマトが「私にはリコピンが豊富にあるのに、一切ないじゃがいもと一緒にされたくない」とか、人参が「私はカロチンを持っていない葉物達とひとくくりにされたくない」とか、言わないと思うのです。トマトが「私は『野菜』じゃなくて、『トマト』と呼んで」とか、言わないと思うのです。

 人は、トマト個人の特徴はよくよく理解した上で、「野菜」という総称の中に入れているだけなのだから。

 「野菜」という総称を作る事で、例えば「肉を沢山食べた時は、野菜も一緒に食べたほうがいい」というような言い回しが可能になります。こういう時、個々の野菜を一つひとつ言い上げるのは無理です。「肉を沢山食べた時は、トマトかじゃがいもか人参かアルファルファか、、、、」日が暮れます。

 総称を付けるというのは、そこにカテゴライズされている個々人にはそれぞれに特徴があるというのを踏まえた上で、共通点によってまとめてひとくくりにしている、という事なのです。

 だから。「私は他の発達障害者とは違うのだから、『発達障害』とひとくくりにされたくない」という文言は、ナンセンスだなと、私は思います。

 「発達障害」という総称が存在する事には、様々なメリットがあるからです。例えば、幼児が発達障害ではないかと気づいた親が、小児科を受診する時、「発達障害外来はありますか?」と聞く事ができます。発達障害という総称がなければ、こういう時、どうやって受診する病院を探せばいいのでしょうか。幼児だから精神科ではありません。かといって、普通の小児科では診れません。発達障害という総称が存在するから、受診先を探す事ができるのです。

 ただ。

 「発達障害」というのは、あくまで一つの総称であって、そこにカテゴライズされた個々人は異なる要素を持っているという事は、まだ広く知られてはいないかもしれません。まるで「鼻水と咳と熱が出たら風邪」というように、「〇〇と△△と□□という特徴があれば、発達障害」というように、狭くとらえている人のほうが、一般には多いと思います。

 でも、その一般認識も、今現在は、という事にすぎず、おそらくこれから変わっていくことと思います。変えていかなければいけないわけですし。一人ひとりの発達障害者やその関係者が、コツコツと説明を繰り返していく事で、一般認識も少しづつ変わっていくと私は思っています。その為に、私もこうやって事あるごとにブログに書いているわけですし。ごくごく微力に過ぎませんが。小さな砂の積み重ねが、いつか一つの大きな土地を作ると思っています。

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