書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

子供の自主性を尊重するということ。

 拝読させて頂いたブログに、灘校の教育方針について書かれていて、少し考えてしまいました。その記事の主旨とは少し外れるのですが、今日はその事について書きたいと思います。

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 私の身内には、灘出身の人間が多い(灘中・高→京大医学部)のです。私は女子なので違いますが、男子だったら行かされていた(目指していた)と思います。

 拝読させて頂いた記事にも書かれていましたが、確かに灘というのは、生徒の自主性を極端に尊重する校風です。例えば、医学部受験生についても、学校で、受験対策なんて何一つやりません。学校でやるのは、受験には一ミリも関係のない勉強ばかり。医学部受験する生徒は、個人的に医学部専門の受験塾や家庭教師につくのです。学校任せにはできません。いい学校に入ったから、学校がやってくれるだろうと思ったら大間違いで、もう少し下のレベルの中高に入ったほうが、少なくとも受験対策はちゃんとやってくれる。

 それでも、京大阪大医学部に灘校の生徒が多く受かるのは、灘の生徒がもともとそれだけ優秀だから、であって、灘校で受験対策をバッチリやってくれるから、ではありません。

 まあ、もっと言えば。京大・阪大あたりの医学部では、医師国家試験対策など全くやってくれず、国家試験とは関係ない事ばかりさせられます。国家試験対策は個々人が自分でやれ、という方針。もう少し下のレベルの大学だと、6年間国家試験対策ばかりやってくれる予備校みたいな大学もあるのですが。でも、蓋を開けて見れば、国家試験には阪大京大の生徒が多く受かっている。これは灘と同じ理屈です。

 結局のところ、優秀な生徒だから、「生徒の自主性に任せた教育方針」が通用するだけの事だと私は思っています。

 話を灘に戻しますが。例えば文化祭などの行事についても、教師はノータッチで、全部生徒が責任持たされてやります。

 校則違反についても、問答無用というか。例えば、友達がタバコを持っているのを見ていただけで、停学です。タバコ保持者が退学沙汰になるのはまだ分かるけれど、それを見ていただけで停学ってのは、、、。「こいつタバコ持ってそうだな」という友達には近づかないようにするか、近づかざるを得ない場合は、タバコを取り出しそうになったら場を外すとか、そいう肚芸が中一からできないと、灘では生き残れない。

 まあ、色んな意味で、灘あたりに行くと、生徒一人ひとりにかかってくるプレッシャーは半端ない重さがあります。

 だから、体を壊す子、心を壊す子、一生懸命勉強して灘高は卒業できても、受験には失敗する子、いろいろいます。

 結局のところ、強い子だけが行ける学校です。賢くて強くて優秀なコミュ力も高く要領もよく、とにかく「人としてあらゆる点で能力の高い人間」だけが通用するのです。

 灘に子供を行かせているお母さんと話すと、皆さん口を揃えてこう仰る。「私は子育てなんか何もしなかった。子供が勝手に育って行ったって感じだった」と。これ、嘘でも何でもなく、本当なのだと思います。

 灘に入るような子は、ガリ勉タイプではなく、また、早いうちから自立が完成し、親や大人の手を煩わせる事なく一人で成長できる力のある子なのです。そういう子だからこそ、自主性を尊重する教育が通用する。

 一応書いておきますが、個性的なのはいいのです。強くて優秀で要領がよく、その上で個性的であれば、灘では受容されます。個性的だから排除される、という事はありません。でも、弱くて能力が低く要領が悪い個性的な子は、付いていけません。当たり前ですけれども、個性的であって許されるというのは、前提として、それが許されるだけの能力の高さを要求されるのです。能力が低くて個性的、というのは、個性的であるかどうかは問題ではなく、能力が低いという段階で、駄目なのです。

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 何故私が、長々と灘の説明をしているのかというと。

 灘がそういう学校である、という事は構わないのです。日本中の優秀な人間が集まっているのですから。

 ですが。

 灘が「生徒の自主性を最大限に尊重する教育を行っている」ので、他の学校も、それに倣おうとする傾向が強まっている事が、私には問題だと感じられるのです。

 何度も書いていますが、灘の生徒が優秀なのは、学校の教育方針が「生徒の自主性を最大限に尊重する教育」を行っているからではなく、ただただ優秀な生徒が集まっているから、優秀なだけです。

 でも、外から見たら、「生徒の自主性を最大限に尊重する教育」をすれば、灘のような生徒をうちの学校でも作れる、と思い込む学校が増えているように感じます。それが大きな問題だと私は感じています。

 昨今は、どこの学校も「アクティブラーニング」流行りです。アクティブラーニングというのは、教師が生徒に教えるのではなく、極端に言えば、生徒が生徒同志で話し合って学んでいく、というスタイルで、教師は外からそれをサポートするのみです。この教育スタイルが可能な生徒は、今までの履修部分を全て完全にマスターしていて、かつ数単元先まで予習が出来ていて、しかもそれらを完全に理解していて、コミュニケーション能力の高い生徒、だけです。普通の生徒には無理です。にも関わらず、どこの学校も今、アクティブラーニングを取り入れようとしています。

 能力の低い生徒の自主性を最大限尊重したら、能力の低い生徒は、益々能力が低くなるだけだし、それによって不利益を生じるのは、生徒側です。長期的に見れば学校も不利益を生じるでしょうが、まず被害を受けるのは生徒側です。

 灘がああいう教育方針を通せるのは、優秀な生徒が多いからです。そこそこの能力の生徒しかいない学校で、灘の教育方針をやってみたところで、生徒の能力向上には繋がりません。こういう事、教育現場の専門家の方々が、なぜ分からないのか、私には分かりません。教育と何の関係もない一主婦である私が分かる事が、何故専門家の集まりである学校組織で分からないのか。。灯台もと暗しって事なのでしょうか。

 生徒側が学校に望む事と、学校が目指して進んでいく方向が、完全に真逆になっているという現実。生徒側は、一人一人の生徒を丁寧に見てほしいと望み、学校側は有名校と同じカリキュラムを採用する事で学校の「売り」を作ろうとする。日本の場合、こういう事は、一校二校が独立してやるのではなく、全国の学校という学校が、何故か同時にやろうとするのです。「売り」を目指して始めたところが、やらなければ他から落ちこぼれるという恐怖感からやることになっている。猫も杓子もアクティブラーニング。今日び、生徒の自主性を謳っていない学校は無い。面倒見のいい学校なんて、流行らない。時代遅れ。困るのは生徒で、児童相談所へ寄せられる相談件数が、過去最高になりさらにそれが更新し続けている、というのもうなずけます。

 

 学校教育だけでなく、家庭教育においても、同じ事が言えると思うのです。

 つまり、「自主性を尊重したら」優秀な子供になるのではなく、「もともと優秀な子供になら」自主性を尊重する事が可能だ、という事なのです。もともと能力の高い優秀な子供を、より効率よく伸ばす為には、自主性を尊重する教育が適している、という事であって、全ての子供にそれが言えるわけではない、と私は思います。少なくともウチの息子のような、凡人以下の子に、自主性を最大限に尊重する教育をやってしまったら、路頭に迷わせるだけです。

 優秀な子供しか相手にした事のない教育者の考える教育方法が、「全ての子供に」有効とは限らないのです。むしろ、優秀ではない子供にとっては、害にしかならない場合が多いと私は思います。

 結局のところ、子供のレベルに合わせた教育が、一番確かだと私は思います。

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*拝読した記事の内容を、少し否定するような事を書いてしまいました。申し訳ありません。他意はありません。考えるヒントを頂けました事に、感謝いたします。