書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

親世代と、私達世代の、子育ての価値観の違い

 おはようございます。

 今日も良いお天気で気持ちいいですね。まるで真夏のように、洗濯物が一気に乾いていきます。週末は、子供の制服など平日にはしない洗濯物が多くなるので、お天気がいいのは本当に助かります。

 夫と子供は、例によってお出かけしましたので(どこかの学祭に行くと言ってました)、私はのんびりお茶を飲んでいます。いつの間にか慌ただしい子育て時期が終わり、こんなに優雅な週末を過ごせるようになっていて、改めて不思議な気がします。

 夫の仕事量は、15年前も今も同じだけれど、家事育児を担当している私の仕事量は、15年前の半分以下に減っています。年齢と共に無理が効かなくなってきているので、仕事量が少しづつ減ってくれるのは、有り難い限りです。子供が小さかった頃は、私の仕事量のほうが多かった気がしていましたが、今は夫の仕事量の方が遥かに多いので、平均して見れば、結局同じなのかなあと思います。

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 ふと思って、今日は子育てについてつらつら考えた事を書きます。書きたいテーマは二つあります。

 一つ目は、私の母の世代の子育てと、私の時代の子育ての違いについて。

 母の世代が子育てしていた時代は、子供について、前時代的な価値観がまだ残っていた時代。前時代的とはつまり、子供に人権など無かった時代、という事です。以前にも少し書きましたが(こちらの記事等です↓)、

http://oinor-i.hatenablog.com/entry/2018/10/25/080000

昔は子供は親の所有物であり、煮て食おうが焼いて食おうが、親の勝手だったのです。生活が苦しければ廓に娘を、商家に息子を売ればよく、それは100%合法で、売られた子供は親孝行者と褒められこそすれ、不憫がられる事はありませんでした。

 母の世代の価値観は、そういう前時代的な価値観を、まだひきずっていた時代です。だから子育ては、親の都合でやるべきものだと思われていました。「親の都合でやってよい」のではなく、「親の都合でやるべきもの」です。良心的な親が子供の気持ちを汲んで丁寧な子育てをしようものなら、「過保護」「甘やかしすぎ」と非難されました。親は自分の感情で子供を叱り、自分の思い通りに子供を躾け、面倒くさい時は放置する、そんな子育てが当たり前の子育てでした。

 一方、私達の世代の子育てについての価値観は、大きく変わり、子供に人権を認める事が当たり前になりました。「個々の子供に合わせ、子供の気持ちや成長スピードを汲んだ丁寧な子育てが、良い人間を育てる基本である」という事が、やっと定着し始めたのです。そういう子育ては、勢い、親の自己犠牲を要求します。個々の子供に合わせるという事は、親の都合は我慢せねばならないという事だからです。

 私達の世代は、自分が親からされた子育てと、自分が子供にせねばならない子育てが、異なるのです。

 とても極端な言い方をすれば。私達の世代は、自分がして欲しかった子育てはしてもらえず、自分がしたくない子育てをせねばならない、損な世代と言えます。

 子育てのモラルが定着しだしたのは、地域差や各家庭で誤差はありますが、概ね20年ぐらい前からでしょうか。なので、ざっくり言えば、今20歳以上の女性は、自分がして欲しかった子育てはしてもらえなかったのにも関わらず、自分がしたくない子育てをせねばならない損な世代にあてはまると思います。

 この事によって、何が起こっているかと言えば。

 今20歳以上の女性が、自身の人生がうまくいかない理由を、「親のせい」としてしまう傾向が顕著になっている、という事です。今の時代の子育ての常識から考えれば、自分がされてきた子育ては、「ひどい子育て」に見えるのが当たり前なのです、ですがそれを時代の価値観の変化のせいだとは気づけず、自分だけが特別ひどい子育てをされたのだ、私は辛かった、私は悲しかった、と思ってしまいがちなのです。

 そしてそれは「私が〇〇出来ない人間なのは、親が△△してくれなかったせい」「親のせいで子供時代の私は傷ついた、悲しかった、だから今、こんな性格になっている」となりがちです。

 つまり。自身の問題は、自分の努力不足ではなく、親の子育ての不備のせいだ、と考えてしまうのです。自分の問題の責任を、自分でとるのではなく、親に押し付けてしまう。

 今の子育てのモラルからしたら、親の世代の子育ては間違っていたように見えますが、当時はそれが当たり前であって、多少の差こそあれ、全ての子供がいい加減に子育てされていたし、親都合で理不尽に叱られ、時にひどい体罰を受け、言葉で傷つけられ、放任されて育ってのです。

 私だってそうです。まだ言葉が上手に話せなかった1歳頃、母の言う事が聞けなかったからといって、全身ぐるぐる巻きにされて玄関に放置された事もあります。小1頃にはもう自立させられていて、何もかも一人でやっていました。電車に乗っていくお稽古も一人で行ったし、困った事や辛い事も、母に話すと逆に叱られるだけなので、母には話さず全て一人で解決してきました。今だと虐待だ放任だと言われる処遇でしょうが、当時はただの躾だったのだと思います。この母が、ひどい人間かといえばそんな事はなく、むしろ良心的な良い方の人間だと私は思っています。ただ時代の子育てが、そういうものだったのです。

 私も、息子を産んで育てている過程で、自分がやっている子育てと、自分がされた子育てのあまりの差に、とまどう事が多かったです。私は、息子をぐるぐる巻きにして玄関に放置など、間違ってもしたくなかったし、行動として叩く事も、言葉で傷つける事もしたくありませんでした。実際しませんでした。子供の話は高校生になった今でも丁寧に聞くし、困っていたら一緒になって悩み考えます。

 発達障害でとても育てにくかった息子に比べ、成長が早く頭もよく性格的にも自制的な私は、とても育てやすかったと思います。だから余計に、母からされた雑な子育てと、自分がやっている丁寧な子育てとの差に、私は腑に落ちない思いを感じました。

 ですが。全ては時代の価値観の差で、個々人の咎ではない、という事に気が付き、必要以上に親を責めるのは間違っていると気が付きました。

 また。自分の問題を親の子育てのせいにしている限り、一生、苦しいままだという事、問題は解決しない、という事もまた、今現在50歳の私は、周囲を見ていて感じます。

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 「インナーチャイルドを癒す」という言葉があります。子供の頃に辛かった自分に返って、当時の自分に今の自分が寄り添い、慰める、という心理的なアプローチです。辛かった苦しかった悲しかった気持ちを十分感じ切る事によって、心の中のひっかかりが溶け、今の自分がラクになれる、と。

 ですが私はこれに懐疑的で。

 10年以上前からずっと、「辛かった気持ちを感じ切る事が大事」と、何かうまくいかない事があるたびに、自己憐憫に浸ってインナーチャイルド癒しを行っている人を知っているのですが、今だにラクにはなられておられません。いつまで続けるんだろう?と気の毒に思ってしまいます。どこかのカウンセリングかセミナーで、感情を感じ切る事が大事と聞いて以来、ずっとそこに耽溺していて、同じ苦しい感情を繰り返し繰り返し思い出しておられるようで。そうする事で、更に益々そこから抜け出しにくくなっているように見えます。誰彼となく自身のされた子育てを語るのですが、年々その内容が悲惨な方向にエスカレートしています。最初の頃は、「母は酷かったけれど父は優しかった、私は父のお気に入りの娘だった」と語っていた記憶があるのですが、今は「母も父も酷かった」という話に変わっています。

 確かに、自分の気持ちから目を背けず正面から観察する事は大事でしょうが、ある程度やったら、「はいおしまい」「もう十分」と、気持ちを切り替えるほうが良いように私は思います。心というのは、実際には脳が感知できる表面的な顕在意識にしかすぎず、掘り下げても掘り下げても、潜在意識には到達できません。掘り下げているつもり、感じ切っているつもりでも、実際には、浅い顕在意識の部分をぐるぐる行ったり来たりしているだけなのです。同じ思いを何度も繰り返し上書きして意識し続けてるだけなのです。上書きするたびにその辛い記憶は強化され、ますます忘れずらくなっていきます。逆効果なのです。

 辛い記憶は見もせずに忘れろ、と言っているわけではなく、ある程度は正面から見てみる事は必要ですが、一定時間が過ぎたら、「はいおしまい」「もう十分」と気持ちを切り替える事が大事だと私は思います。

 アダルトチルドレン、という言葉もありますが。私達世代は、多少の差こそあれ、みんなアダルトチルドレンなんじゃないかと思います。私達世代は、と言うか、私達を含め私達以前の世代は、みんな雑で理不尽な子育てをされてきたのですから。それを必要以上に気にしてこだわって、一生言い続けて生きるのか、ある程度で割り切って切り替えて生きるのかは、自分の意識次第だと思います。

 その気持ちの切り替え、自分への納得の材料として、「子育てについて、親世代の時代の価値観と、私達の時代の価値観が、そもそも全く違っていたのだ」という事に思い至る事が、役に立つのではないかと思います。

 

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 長くなりましたので、子育てについて書きたいテーマ二つ目は、次回に書きます。