書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

微かな充たされる感覚について

 1つ前の記事の続きのような内容です。

 脳が自動運転だとしたら、不安である、と。何か生きていく指針が欲しい、と思うなら、こういう事を心がけてみればいいかもしれない、という事についての考えを、今日は書きながら自分なりにまとめてみたいと思います。誰かから聞いた事ではなく、私が勝手に考えている思考の流れなので、途中飛躍があったり筋が通っていない部分があるかもしれません。先にお詫びとお断りをしておきます<(_ _)>。

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 では。先に結論を書いてしまうと「わけもなく涙が出るような事。わけもなく心が充たされる事。そういう事を、やってみればいい」、という事だと私は思っています。

 「わーい!やったー!嬉しい!」と心が喜ぶ事ではなく。こういう、分かりやすく大きく心が喜んでいると私達が感じる時というのは、実は心ではなく、脳が興奮しているのです。「脳の興奮」=「脳の電気信号」です。

 脳の自動制御は、常に、「その体が得をするように」動いています。体が得をする方向で動きます(体のDNAを存続させる方向にも動きます)。

 つまり「わーい!やったー!嬉しい!」と私達がハッキリ大きく感じる時、それは、脳が興奮している時で、脳は私達が得するように得するように自動制御で動いているわけなので、つまりそれは、自分が得したと脳が判断した時なのです。

 怖い事に、脳は、基本的に「刹那的な」「その場その場での」刺激を受けて、パッパッパと電気信号を各モジュール間で送りあっているだけなので、本当の意味での「大局的な判断」はできません。脳の信号は一瞬一瞬で流れるだけなので、常に変化し、常に「その場限り」なのです。その上、「自分が得した」時のみ大きくプラスに興奮しまた同じ興奮を何度も得ようとし、逆に「自分が損した」時は大きくマイナスに興奮する為に同じ事態を避けようとします。

 私達が「魂」のないアメーバであれば、それで良いわけです。問題ない。

 でも、人間なので、脳の自動制御に振り回されると、危険です。

 危険な理由の一つには、脳が大きく興奮する「自分が得した時」というのは、誰かが損した時、である事が多いからです。脳の自動制御にのみ従って生きていると、多くの敵を作り、うまく生きていけなくなります。実質的に何か害を与えらえるだけではなく、ただ「恨まれる」だけでも怖い事です。人から飛ばされる恨みの念は馬鹿にできません。それで怪我をしたり病気になったりするからです。

 危険な理由の二つ目は、「誰かに損をさせて自分だけが得した時」、自分の魂に傷をつけるからです。魂は見えない世界に属しているものなので、自分のものではあっても、普段は意識できません。だから、魂にどんどん傷が増えていっても、気づけない場合があります。無理やり言葉で説明すれば、「良心が痛む」時、魂に傷がついたと考えていいと思います。

 魂に傷がつく=霊格が下がる、という事で、様々な不都合が起こってきます(霊格が下がる事による不都合は、過去記事に書いたので、良ければご参照ください)。下がった霊格を上げる為には、魂の傷を癒す事、つまり、最初に書いたような「わけもなく心が充たされる事」をやったり、良心に従った行動を取ったりすると、良いと私は思っています。

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 整理すると。「わーい!やったー!嬉しい!」という感情だけを重視して生きていると、危険である、という事。なぜならば、そういう、激しい分かりやすい感情は、魂ではなく、脳由来のものである、という事。脳は自動制御なので、脳だけに頼っていると、敵を多く作ってしまう、また、霊格を落としてしまうから危険である、という事。だから、魂を意識して生きると安全だ、という事。それは、言葉では説明のできない、とても微かな感覚、でも優しく充たされるような感覚である、という事です。

 微かな充たされる感覚を、分かりやすい悦びより、大事にしたい、これが私が「こうしたいなあ」と思っていることです。こうせねばならない、という事ではなく、こうできたら自分がラクだろうなあ、と、そんな感じに思っています。

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 まとまったような、まとまらないような。でも自分なりには納得できたので、今日はここで終わります。