書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

カウンセリングの限界

 私は、子供への虐待を見てしまうと、とても動揺してしまう。悲しさ、苦しさ、私には何もできないという無力感で胸がふさぐ。そういう経験を書いた記事もいくつか過去に書いたし、また、私なりに子供への虐待を防ぐ方法について考え、過去記事にも書いてきた↓。 

oinor-i.hatenablog.com

 

 今、カウンセラー業界で、子供への虐待についての話が、少し取沙汰されているようだ。心屋仁之助さんという民間のカウンセラーさんがおられて、その方が、子供を虐待してしまう母親に対して、アドバイスをされている。そのアドバイスについて、批判が集まっているとのこと。一般人だけではなく、精神科医からも批判が寄せられたとの事で、記事が上がっていたので、貼っておく↓。

「心理学ではなく新興宗教」精神科医が、人気カウンセラー・心屋仁之助氏の「娘叩く母」肯定を斬る|サイゾーウーマン

 上の記事に出てくる精神科医の片田珠美さんが、心屋氏のアドバイスについて、言及されている。批判というよりは、論理的に問題点を挙げている、という感じ。片田珠美さんの著書は私もよく読んでいるし、過去記事にも一冊読書記録を書かせて頂いた。堅実なものを書かれる方、という印象がある。

 心屋氏については、実は、私の知人が二人はまっているので、その関係で知っている。

 上の記事は申し訳ないが、飛んで読んで頂くとして、問題になっている心屋氏の、子供を虐待してしまう母親へのアドバイスについて、詳しく見てみたい。勝手ながら、ブログ記事から一部抜粋させて頂く。

・・・・・・・・・

心屋氏に対する、読者からの相談コメント)

エイミー(心屋式カウンセラー氏)のLINEで出たワークで、 色々失敗したり、できないことあったり、感情的に怒っちゃう自分もアリだな、それが人間らしさなんだなと、一日に2つもパッカン(覚醒的に理解)したのに、、、

 色々あって、娘とケンカして、ほっぺたに往復ビンタを3回もしてしまった…

娘に、このままじゃママに包丁で刺される!とまで、言われました。

娘に、取り返しのつかない心のキズをつけちゃいました。 隣で見ていた4歳の弟も怯えて号泣しています。

 わたし、こわいです。

幼い頃、母から暴力を受けました。人をたたいてはいけない、愛しているならたたくはずがない、だから私は愛されていない、と、その頃に思いました。

(でも、心屋式カウンセラーさん達の言う通り)たたいてもいい(のですね)。

選択肢増やしてみます。反動が怖いけど、道は間違ってないんですよね。

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(これに対する、心屋氏のアドバイス) 

 心屋(こころや)です。

 あのーですねー。。。

 キミの娘さん、叩かれるために生まれてきたのよ。だから、叩きたくもないキミを動かしたのよ。キミは、叩く「役目」を負わされたのよ。

じゃなんでその子は、叩かれに生まれてきたのか? それでも親を許すため。それでも親が自分自信を許すためのトレーニングしにきたのよ。

 前世でできなかったから、またチャレンジしにきた。

んで、キミも、叩いてしまう自分を許すチャレンジするために、まずはお母さんにそうさせ、キミら親子3代で配役組んできたのよ。

 だから、要は、「それで、いーよ」「傷つけて、いーよ」

 ・・・・・・・(抜粋終了)・・・・・

*()内は私の補足です。

 

 心屋氏らしいアドバイスだな、と思う。この方は、こういう方向で物事を扱う方だ。私は、抜粋した記事の他の部分も勿論拝読したし、そもそも、知人がはまっているので、心屋氏がどういう教義を掲げておられるのか、は、ある程度は把握している。

 この、心屋氏のアドバイス記事に対して、私は特に何も思わない。酷い、とも感じない。

 今現在子供を虐待してしまっていて、それを意思の力で止める事ができない人に対して、「言葉だけで」それを止めさせる事は不可能だと思うからだ。

 だから、「叩いてもいいよ」と言っても「叩いては駄目だよ」と言っても、結果は同じなのだ。つまり、叩くのは止められない。

 もしかしたら、このお母さんは、「叩いてもいいよ」と心屋氏に書いてもらって、少し気がすんで、一時は叩かなくなるかもしれない。だが、この方の人生から苦しさがなくならない限り、また叩く事が再発するのは間違いない。

 だから、結果、いずれにしても、この読者の方は、子供を叩くのは止められないと思う。子供が、叩けない年齢になったら(成長して体が大きくなったら)、別の虐待(暴言やネグレクト)に変わるだけで、虐待自体は終わらないと思う。

 そもそも、この読者の方が冒頭に書いておられる「エイミー氏」という心屋式のカウンセラーさん自体が、今だにお子様に暴言を吐いてしまうのを、止められない方だ。そういう事を正直にブログに書いておられる。心屋式というのは、そういう世界なのだ。

 それを、酷いとか、間違っている、とか言ってみても、仕方ないんじゃないかなあ、、というのが、私の感想だ。

 上に抜粋させて頂いた心屋氏のアドバイス自体(前世がどうたらこうたら)も、おかしなものだと思うけれど、別にそれも構わない。嘘八百だろうと、それでこの読者の方の気がすむのだし、心屋氏の目的は、相談してこられた読者の方が気がすむ事だから、目的は果たしている。

 精神科医の片田珠美さんは、そこに対して、道理でもって疑問を呈しておられる。私は片田さんの著書が好きだし、片田さんの言う事もよく分かるし、正しい事を仰っておられると思う。

 でも。駄目なんですよ。心屋氏が相手では。まともに「道理」は、通用しないのです。

 

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 話は変わるが、心屋式にはまった知人について少し書く。

 一人は、お子さんが発達障害不登校になり、心屋式と繋がった。お子さんが中学生の頃だ。知人はお子さんを、病院にすら連れて行っていなかった(ので、厳密に言えば発達障害の診断は出ていない)。ただ、育てにくい、不登校が不安、という事で苦しんでいたのだが、心屋式で「子供の問題はダミー(本当の問題ではない)。本当の問題は、あなた自身にある。あなた自身が子供へ罪悪感を持っている事が問題。子供への罪悪感は捨てなさい。子供の事は放っておきなさい」と言われた。その教えは知人を喜ばせた。知人は「放っておいていいんだ。罪悪感も持たなくていいんだ」と子供から背を向け、シングルマザーだったが「私もカウンセラーになる」と言って正社員の仕事も辞めた。

 結果。今、この知人は、パートで食いつなぐ経済的に厳しい日々を送っている。お子さんはかろうじて卒業したが(多分。もしかしたら中退かもしれない)、就職できず(する気もなく)家にひきこもっている。

 心屋式にはまらなかったら、知人の人生がどうなっていたか、は分からない。やっぱり同じだったかもしれない。心屋式に出会わなくても、彼女には、真に子供を助ける、という事が出来ず、しんどい仕事は辞めてしまって、彼女の人生は、結局同じ帰結になっていた気もする。

 もう一人の知人は、つまらない主婦生活やご主人に不満があって、心屋式と繋がった。やっぱり同じように「ご主人の事はダミー。問題はあなた自身。あなたが人生を楽しんでいない事が問題」と言われ、「ご主人の事はほうっておきなさい」と言われた。彼女は家事をやめ、外で遊び出した。あまり外聞のいい遊びではないこともやった結果、裁判沙汰を起こし、ご主人とは完全に不仲、家族の中でも孤立している。

 この彼女も、心屋式と出会わなくても、同じような人生だったかもしれない。

 彼女達は、心屋式と繋がった当初の一時期、とても幸せそうだった。心屋式のカウンセリングで人生変えられる、と意気込んでいた。その頃彼女達は心屋氏のブログに「心屋式のおかげで、こんなに幸せ」とコメントを寄せていたかも。そして心屋氏がそれをブログ記事に取り上げて「ほらね。そうだろう」と書いていたかも。

 でも人生が転がり落ちてしまった今、彼女達は心屋式から離れてしまった。心屋式に繋がるには、お金が必要だから。カウンセリングにもセミナーにもお金がかかるのに、彼女達にはその余裕はもうない。生活保護を受けていても、医療機関にはかかれるが(保険適用の医療機関なら)、民間のカウンセリングには保険が適用されないので、お金がなくなれば通えなくなる。

 そもそも、カウンセリングで人生が好転する筈なのに、逆に暗転した場合、担当カウンセラーが責任を取ってくれるわけではない。

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 何故、彼女達は、こんな事になってしまったのか。

 その理由を一つクリアに挙げるとするならば、彼女達は人生を変えるような大きな決断を、「カウンセラーのアドバイスで」決めてしまったからだ、と言えると思う。

 つまり、カウンセリングで人生を変えよう、と思ってしまった、それが危険を招いたのだと思う。

 カウンセラーと医師の違いを言うならば、結果に責任を持つ義務があるか、無いか、に尽きる。この場合のカウンセラーとは、病院付きのカウンセラーではなく、心屋式のような民間のカウンセラーだ。

 民間のカウンセラーの場合、そのアドバイスに従って結果、人生が悪い方向に行ったとしても、カウンセラーが責任を取ってはくれない。

 これが医師の場合は、責任の取り方には種々あるが、それでも大きなくくりとしては、自らが下した診断や投薬の指示の結果について、責任を取る義務がある。裁判沙汰になった時は、患者が勝つ。また、医師は患者を選べないし、治る種類の病なら治るまで患者を診る義務がある、また治らない種類の病でもできるだけの事をする義務がある。だから医師は言葉に慎重で、あまり断言しないし、白か黒か分からない場合は言葉を濁す。病が発症した原因についても、確固とした根拠が無い限り、推測段階では明言しない。全て患者に言質を取られない為だ。

 これがカウンセラーだと、結果に責任を取る必要がないので、言いたい放題が言える。クライアントが言って欲しい事を言える。病に至った原因も、ただの推測なのに「あなたに罪はない。親との関係に問題があった」等と言ってしまう。大丈夫だという確信もないのに、「大丈夫」を連発したり、やってはいけない事なのに「やってもいいよ」と言う。心屋氏が母親に「子供を叩いてもいいよ」と安易に言ってしまえたのも、心屋氏がその責任を取る必要がないから、出来た事だ。精神科医では言えない。もし万一、母親がその後子供を叩いて何かが起こった時、責任は医師に来る。でも、心屋氏の場合は、万一子供に何かあっても、彼が責任を取る必要がない。

 つまり、「カウンセリング」や「セミナー」(以下セミナー省略)というものには、自分の人生を左右するほどの力を、与えてはいけない、という事だ。

 これをきちんと分かっていないと危ない、という事です。

 私の知人二人は、これが分かっていなかった。人生を変えるほどの大きな決断を、カウンセラーさんの言葉によって決めてしまい、失敗したのだ。

 彼女達も、彼女達なりには「ちゃんとしていた」のだ。いわく「あのカウンセラーさんの言う事を信じる、と決めたのは私。あのカウンセラーさんを選んだのは私。私の選択」と。つまり、彼女達は、全てが自己責任だとわきまえているので、人生が暗転しても、カウンセラーさんのせいにはしない。自分の選択故だ、と思っている。

 でも、これは、違うのだ。

 彼女達に、カウンセリングの限界をあえて知らさなかったカウンセラー側に、ある程度の責任がある、と私は思う。民間とはいえ、カウンセリングはある種の医療行為であり、金銭のやり取りがある以上、カウンセラーの言葉は、一般人の言葉とは、重みが違う。無責任であっていい、わけはない。私の知人の彼女達は、そこを勘違いしていると私は思う。全て自分の自己責任でおさめる必要はないと思う。もっと文句言っていいんじゃないの?と。

 だからまあ、私がここに、こういう事を書いているわけですが、、、。

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 いずれにしても、カウンセリングの限界をきちんと分かっていれば、たとえカウンセラーさんが何を言おうと、大丈夫。「子供を叩いてもいいよ」と言われても、自分の判断基準に「いや、叩いてはいけない」とちゃんと持っていれば、「カウンセラーさんはそう言うけれど、私は叩かない」と一線を引ける。

 でも、カウンセリングで人生を変えよう、と思ってしまう人は危ない。「罪悪感を捨てなさい」と言われて「いや、それはできない」と考える事ができない。カウンセラーさんから「今までずっと罪悪感を持ってきて、現に今、人生うまくいっていないのでしょ。だったら逆をやらなきゃ。ありえない、って思ってる事をやらなきゃ」と言われたら、「そうなんだ」と盲目的に信じてしまう。 

 心屋式のようなカウンセラーさんによって、罪悪感というストッパーを外されてしまうと、一時的・刹那的に、人生は楽しくなる。なので依存してしまう

 一時的にでも楽しめたのなら、それでいいじゃないか、という考え方もあると思うけれど、人生を楽しんだそのしわ寄せが、周囲の弱い人達(往々にして子供)に押し付けられたり、その人自身の人生を破壊してしまう危険がこわい。可能性として低くはないのに、依存しているので、危険に気づけない

 つまり、心屋式で何が行われていようが、基本的には関係なく、大事なのは、カウンセリングを受ける側の心のスタンスなのだ。カウンセリングを受ける側が、自分の良識を死守できるだけの強さを持っている事。カウンセリングで人生を変えよう等という、大きな期待を持たない事。 

 「カウンセリング」が無意味だとは言わない。時に気分転換になり、時にヒントがもらえる。また、自分の話を傾聴してもらうだけでも癒されるものだ。それだけでも、人は随分と救われるものだ。だから、民間といえども、カウンセリングは必要なものだと私は思う。

 でも、「カウンセリング」で人生まで変えられると期待してしまう人は、その心の方向性は、人生を下っていく危険がある、と思ったほうがいいと思う。

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 カウンセリングには限界がある、という事については、例えば、最相葉月さんの「セラピスト」に、詳しく書いてある。 ご参考までに貼っておきます。

セラピスト (新潮文庫 さ 53-7)

セラピスト (新潮文庫 さ 53-7)

 

 私達は、カウンセリングの限界を分かっているべき。それをみんなが分かっていれば、今回の心屋氏の発言に対して、こういう世間の反応は、起こらなかったのではないだろうか。

 民間のカウンセラーさんだから、何でも言えるよね。大事なのは、私達クライアント側が、しっかりしている事だよね。そういう反応で終わったのではないだろうか。

 そもそもカウンセリングに過剰な期待を持ってしまう人は、「叩いてはいけないよ」と言われても叩くのを止められないし、叩いた上で「叩きたくなかった」と泣く。そういう人達なのだ。差別的表現で申し訳ないけれど、個人の問題もあるし、環境の問題もあるし、誰が悪いというわけではなく、そういう事実がある、という事だ。

 子供への虐待を本当に止める方法は、子供を保護するか、母子共に保護するかの、どちらかしかないと私は思う。カウンセリングで母親の心を癒せばいずれ改善する、理屈ではそうだけれども、環境的に厳しい状態が変わらなければ(子供が多い、発達障害児である、経済的に厳しい等)、母親の心が癒されてもまた、現実の苦しさに引き戻され負けてしまう。母親の心を癒すだけではなく、環境を変える必要があるのだ。カウンセラーには、子供の数を減らす事も、子供の障害を治す事も、母親を経済的に支援する事も、できない。

 カウンセリングは、心理的に人を救う事はできても、物理的に救う事はできないのだ。心が変われば全てが変わる、というのは、カウンセリング業界でよく言われる事だけれども、決してそんな事はない。心(主観)は大事だけれど、物理的な環境・状況(客観)というのも、その人の人生に大きな影響を与えていて、それは、カウンセリングだけではどうしようもない事。地道に具体的に動いていくしかない。

 主観ですべてを変える事はできない。カウンセリング界では、主観を客観の上に置いてしまう傾向があるけれど、それは危ないと私は思う。客観性の維持は、人生を安全に渡っていくのに必須だと思う。特に心屋式のカウンセリングでは、この「客観性」を外そう外そうとする傾向があるので、私は個人的には、危険だなと思っている。「客観性」を外せば、辛い現実を見ずにすむので、一時的には楽しく気楽に生きられるようになる。だから人は、心屋式のような「主観が全て」と掲げるカウンセリングにはまってしまう。楽しいから。ラクな気持ちになるから。でもそれは一時の事で、いずれ厳しい現実に追いつかれる。その時にはもう、手のうちようがなくなっている。

 いずれにしても私達は、カウンセラーという人達に対して、必要以上に期待せず、熱くならず、その限界を知り、冷静に付き合っていければいいなあと、私は思います。

 

*元心屋式カウンセラーをされていた「たこわささん」という方が、下記のような手記ブログを書いておられます。一読頂くと、民間カウンセリングとの付き合い方が、より明確になると思うので、貼らせて頂きます↓。

はじめに: (2) 信者と書いてカモ

 厳密に言えば、心屋氏が何を発言されようと、それは心屋氏の自由であって、感情的に批判してはいけないように思います。大事なのは、私達が、民間カウンセリングに対しての、正しい付き合い方を知る事です。その為に、上に貼らせて頂いたたこわさんのブログは、確かな判断基準を、私達に与えてくれます。お読み頂いて良い体験談だと思われた方には、できればご拡散頂ければ、私の知人のような人達が減る一助になると思います。