書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

大坂なおみ選手の優勝に寄せて。

 大坂なおみ選手が全米オープンセリーナ・ウィリアムズ選手を下して優勝したそうで。素晴らしいですね。まだ20歳だとか。何度かテレビで大坂選手がインタビューに答えておられるのを見ましたが、なんとチャーミングな人なのだろうと思いました。飾り気も気取り気負いもなく、シャイで率直で。恥ずかしい時に、かぶっているサンバイザーのツバを下げて目を隠すしぐさも、恥ずかしがり屋の女の子そのもので、かわいらしい。

 正直私は今まで、大坂選手のことをほとんど知りませんでした。でもあの全米オープンの表彰式でのスピーチを見て、「この人は日本人だなぁ」と感じました。

 というのも。 

 試合中から起こっていた観客のブーイングが表彰式でもまた終わらず、大坂選手は、それが自分へのブーイングだと思った、つまり、セリーナ選手ファンの方々が、大坂選手の優勝に腹をたてているのだと、思ったのです。それで、大坂選手は涙を浮かべながら、なんと、セリーナファンの観客に対して、謝罪の言葉を述べたのです。こんな試合結果になってしまってごめんなさい。私が勝ってしまってごめんなさい。と。

 大坂選手の表情には、「謝ればいいんでしょ」といったあてつけがましいものは全くなく、本心から、セリーナファンの人達の気持ちに寄り添い、応援している選手が負けてしまって悲しいですよね、悔しいですよね、という共感の意が溢れていました。

 あの場面で、あの状況で、謝罪できるのは、日本人だけです。大坂選手がどんな外見であろうと、彼女はまさしく、日本人のメンタルを持っている。彼女は、間違いなく日本人だと私は感じました。大坂選手のあの涙と、あの謝罪の言葉に、共感した日本人は多かったのではないでしょうか。一緒に涙した人もいたのではないでしょうか。

 他の国では、特にアメリカでは、あの場面で謝る人はいません。200%自分の非を喉元までつきつけられても、なかなか謝らないのがかの地の文化であり、メンタルです。それが悪いとは思いませんが、日本人の精神性とは、全く異なるものだと私は思います。

 はてなで、以下の記事を拝読しました↓。

日本人がみんな人種差別主義者なわけじゃない(大坂なおみ選手は日本人なのか?) - Phie Hardison

 この記事を書かれたブロガーさんのお気持ちはよく分かるし、この記事の論点について私は特に異を表したいわけではありません。

 日本において、異形のものが時に嘲笑されるというのは、よくある事です。我が息子も発達障害児という独特な言動の持ち主ですので、まさに異形であり、嘲笑の的になる事は折々にあります。

 ですが一方で、いかにもな発達障害者が、一つの分野に強力な才能を発揮した時、嘲笑していた同じ人達が賞賛する側にまわるのも、これまたよくある事です。

 それを「おかしいじゃないか」と怒ってみたところで、空しいかなあと私は個人的には思います。人間って、そういうものだから、仕方ないんじゃないかなあ、と。

 そして何よりも。

 ハーフの方々を嘲笑的に見ていた人達が、大坂なおみ選手の優勝に喜ぶ時、大坂選手がハーフだとか、日本人離れした外見だとか、そういう事は念頭にはなかったのではないか。「ああ、この選手はまさしく日本人だ」と、みんなが感じたのは、それは、彼女のあの謝罪の言葉であり、涙であったのではないか。私達は大坂選手のあの精神性を、まさしく日本人そのものだと、感じたのではないでしょうか。そしてそこに、郷愁と共感を感じたからこそ、彼女の優勝の喜びがひときわ輝かしく思えたのではないでしょうか。

 その人が「何人(なにじん)」であるか、私達が感じる時の判断基準は、多くがその内面から伝わってくる「何か」ではないか、と私は思います。