書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

やりたい事が、「人助け」の場合、それを仕事にはしないほうがいいかも。

 よく、「やりたい事をすれば、自分が充たされる」みたいな事を言うじゃないですか。で、「私は、人を助ける事が、やりたい事です」という場合がありますよね。だから、「医療者になりました」「サービス業につきました」という人、よく聞きます。

 でも、私は、「人を助ける事が、その人のやりたい事なら、仕事にはしないほうがいい、ボランティアでやったほうがいい」と思うのです。

 何故かというと、『人助け』がやりたい事の場合、それが本当にその人のやりたい事なのではなく、「感謝されたい」「役に立っているという実感が欲しい」という、承認欲求から来ている事が、多いからです。

 もちろん、承認欲求から「人助け」をする事が、悪いわけではありません。いいです。

 でも、「人助け」を仕事としてお金を得ると、どうなるかというと、自分が思ったほど感謝もされなかったり、逆に恨まれたり、する場合があるのです。

 それを仕事とすると、「人助け」が一つのサービスとなって、お金と対価交換されるので、 お金を支払った方はお金を払う事が感謝の表明ですから、それ以上大きく感謝を表明しないわけです。逆に、自分が払ったお金にふさわしい期待したレベルの「助け」が得られなかった場合、文句の一つも言いたくなるわけです。

 こちらとしては、「助けてあげたのだから、感謝してもらえるだろう」と期待しているのに、お金をもらってしまうと、その「感謝」まではもらえない。場合によっては、クレームがきてしまう。やりたい事を仕事にしたのに、思っていたのと違う、なんかしんどい、ということになってしまうわけです。

 人によっては、「私がもっと頑張れば、ちゃんと感謝してもらえるだろう。ちゃんと認めてもらえるだろう」と勘違いして、必要以上に頑張ってしまう危険もあります(私、以前、こういう働き方をした事があり、大失敗しました)。自分の能力以上に頑張って結果を出そう(感謝されよう、認められよう)としてしまうので、とんでもないミスをやらかす危険性が高い上に、結局こういう無茶な働き方は、続かないのです。

 その上、ミスが起こった事に対して、又、仕事が続かなくて途中で放り出した事に対して、「私は精一杯頑張ったのだから、私は悪くない」と思ってしまいます。自分の非を認めないのです。むしろなんなら、「私はこんなに頑張ったのに、誰も認めてくれない」と、自己憐憫の涙を流したりします。とんだお門違いなのですが、承認欲求欲しさに仕事をすると、こうなってしまうのです。 

 「人助け」を職業とする人は、本当にやりたい事は別にあるほうがいいと思うのです。「人助け」は、たまたまそれをやれる能力が自分にあるから仕事にしている、ぐらいのほうがいい。そういうパターンだと、クライアントから感謝の念など期待しないし(お金さえ払ってもらえたらOKと割り切れる、だって仕事だもの)、クレームが来たら冷静に自省もできる(だって仕事だもの)。

 

 やりたい事が「人助け」の場合、それを仕事にはしないほうがいい、と私が考えるのは、こういう理由です。

 

 これは、「人助けを仕事にするな」とか「本当にやりたい事は、仕事にはしないほうがいい」という話ではありません。「やりたい事が、承認欲求由来の人助けの場合に限り、仕事にはしないほうがいい」という事です。

 つまり。最初に戻りますが。よく言われる「やりたい事をすれば、自分が充たされて幸せになる」のは事実だけれども、その「やりたい事」をきちんと精査してみなければいけない、ということ。やりたい事が、承認欲求由来の人助けであれば(感謝されたい、役に立っているという実感が欲しい、から、それをやりたいのだ、という事であれば)、それは仕事にはしないほうがいい、という事です。

 やりたい事が「承認欲求由来の人助けである」、という人は、それはボランティアでやって、仕事のほうはクールな心で出来るものを選ぶと、心豊かに、穏やかに生きていけると思います。

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