書くしかできない

過ぎていく日々を書き留めています

ある日突然、幸せになるわけではない。

 これは私の個人的な感覚なのですが。

 幸せって、日々の積み重ねが作るものだと思うので、「ある日突然、幸せになりました」という事は、ないと思っています。少しづつ少しづつ、幸せになっていく感じ。ジェットコースターのように、上がったり下がったり、ではなく。

 幸せになる人というのは、少しづつ緩慢に、ゆっくりと登っていくように思います。

 一方、対照的に、「不幸」というのは、「ある日突然やってくる」気がします。少しづつ不幸になっていく、というのではなく。不幸になる時というのは、「全く思いもかけなかった」予期せぬ時に予期せぬ状態になること、という気がするのです。私個人で見ても、周囲のことを見ていても。

 落ちる時は一瞬だ、とよく言いますが、それと同じ感覚かもしれません。幸せになるには時間がかかりますが、不幸になるのは、一瞬なのです。

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 私のお得意の(?)神仏関係で言えば、幸せになるという事は、神仏の霊格に近づいていく、という事です。少しづつ日々の思いや行動に、気を付けていった結果として、少しづつ神仏の霊格に近づき、幸せに近づく、という感じ。

 一方で、不幸になるという事は、餓鬼にひきずり下ろされる、という事です。気づかぬうちに霊格が下がっていて、餓鬼の手の届く範囲にまで下がってしまうと、一気に引きずりおろされる。こうなるともう、終わりです。不幸の最終形です。

 でも。同じ不幸でも、餓鬼が関わっていない、宇宙の唯一神(神仏のほうではなく)のバランス調整で起こる不幸の場合、その不幸から反省し学び直せば、そこからまた立て直して浮上していく事は可能です。ただ、宇宙の唯一神のバランス調整所以の不幸でも、起こる時は、前触れもなく一瞬で起こります。 

 よく巷で「これは不幸のように見えるけれど、見方を変えれば不幸ではない」とか「不幸中の幸いだ」とか、聞く事があります。あれは、餓鬼所以の不幸ではなく、絶対神所以の不幸だ、という事だと思います。つまり、自分の間違いに気が付くきっかけをもらった、という事を、「幸い」だと考えるなら、それは不幸ではないわけです。そして、自分の間違いに気が付いて、直していければ、それは文字通り、幸せへと繋がるきっかけになるわけです。でも、「見方を変えれば不幸ではない」を間違って使ってしまうと(事実を歪めて自己肯定に拘泥し自分を変えない)、霊格は下がり続け、餓鬼に捕まって一気に不幸へと落ちてしまう事になります。

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 今日が少し幸せなら、その幸せは何が作っているものなのか、少し佇んで感じてみるのもいいかもしれません。そこには、コツコツと生きてきて自分の人生が見え、目立たぬように支えてくれた誰かの姿が見え、そういうものの上に「今」がある事が、ハッキリと感じられた時、明日はこの上に続くのだと信じられると思います。

 こういう感覚が、自分を信じるという事、心の奥底から安心感を持って生きていくという事、そして、幸せに向かっているという信念を、作るのではないでしょうか。私は、そんな風に感じています。

 また、突然の不幸に見舞われたら、心が落ち着いてからでいいので、自己肯定を潔く捨て、勇気を出して「自分が悪かった。変えていこう。上がっていこう」と決めればいいと思います。それは幸せに続く道であり、安心が得られる生き方だと、私は思います。

 自分が悪かった、と自分の非を認めた瞬間に、幸せに続く階段が、目の前にサッと現れる、私はいつもそう思います。

 もちろん、不運の中には、本人には一切罪はないのに、宇宙全体のバランス調整に巻き込まれてしまったケースや、生まれる前に自分自身で「これを学ぼう」と決めてきたケースもあるので、全てが自分の非から発生してものではないですが。それでも、不幸は自分の間違いから発生している、と思っているほうが、安全だと私は思うのです。

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