書くしかできない

発達障害、神社仏閣、読書記録、日々のつぶやきを主に書いています。

結果を出したその後。

 最近改めて考える事があります。

 人生において、結果を出す、という事は大事だと思っています。口先で「やる、やっている」と言うのではなく、それなりの数字を叩き出す、誰が見ても納得のいく結果を出す、という事は、大事だと思うのです。

 でも、結果を出す、という事は、本当にとても大変なことで、非人間的努力を必要とする場合があります。勿論、非凡な才能に恵まれた方は別ですが、私のような凡々人が結果を出そうとすると、時に、人の情をないがしろにしたり、モラルを逸脱するような無理無茶をしなければ、到達できない場合があります。

 人の情をないがしろにしたりモラルを逸脱してでもやって、それで結果が出た場合、その後の行動が大事なのだと、最近思うようになりました。

 つまり。結果が出せていない暗黒状態から、とにもかくにも頭一つ抜け出した、そして、初めて結果を出せた。この、「初めて」という部分が大事じゃないかと思うのです。

 つまり。「人の情をないがしろにしたりモラルを逸脱した」無理無茶な行為も、初めてだった、一回目だった、という事です。

 本来、人間として持っている良心に背くような行為をすると、必ず人生の先に大きな落とし穴が開く事になっています。でも、どうも、1回目は大目に見てもらえるような気がするのです。良心に背く行為も、1回だけで反省しもう二度としなければセーフだと。落とし穴は開かない。開いたとしてもごく小さい。

 でも、2回やってしまうと厳しい。ましてや3回やってしまうと、これはもう完全にアウトで、絶対に落とし穴が来ます。これは、私個人の人生において確実に言えた事だし、他の人の生き方を見ていても、言える事だと思います。

 良心に背く行為をしてでもとにかく結果を出した。ここまではまだ許される。最初だから。1回目だから。でも、その後、「結果を出したのだから、自分の行為は正しかったのだ。自分は特別だから、どんな行為も許されるのだ」と傲慢な思い違いをし、2回目、3回目と結果を出す為に、間違った行為をごり押しし続ければ、どかんと落とし穴が来る。

 その落とし穴は、邁進している方向とは違う、意外な所に開いたりします。でも、本人の人生を終わらせるのは間違いありません。

 結果を出す事に一生懸命になっている時、もう捨身になって何でもやろうとがむしゃらな時に犯してしまった間違いは、まだ許される。でも、すでに一度結果を出しているのに、もっともっとと望む時、最初のような無理無茶な過ちを、そのまま引き続きやってしまってはいけない。二度目の間違いは許されない。

 結果を出したその時にこそ、次の一手には本当に気を付けないといけないと思います。

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  時に「あの人って、あんなモラル違反(または不誠実)な事をして成功してるなんて、おかしい。世の中間違っている」と感じる事があります。今までは、「なんで?」と疑問に感じていたのですが、最近、この謎が解けました。つまり、成功しているのは「最初」もしくは「2回目」だからです。どんなモラル違反、どんな不誠実行為、も、最初か2回目は、(宇宙の大きな仕組みから)見逃してもらえる。落とし穴は開きません。でも、そこで反省せずにモラル違反(不誠実行為)をやり続けていたら、ドカン、です。

 他人から注意されても、一度成功してしまった状況では、「自分は正しい。だから成功したのだ。自分に限って言えば、モラル違反も不誠実行為も許されるのだ」と思い込み、他人の注意なんて聞けません。ものすごいトラップです。自分で気づくしかないのです。

 若い頃に、こういう事を、分かっていたらなあ、と思います。でも、若い頃の私が、こういう事を誰かに言われても、書いたものを読んでも、ピンとこなかっただろうと思います。若い頃の自分の頭の中身が、今は逆に理解できないなあと思ったりしますが、あの頃はあの頃で、自分の人生に一生懸命だったのです。幸せになろうと一生懸命でした。お姫様のように全てを持っていたら、お上品に澄ましていても幸せを手にできるだろうけれど、私のような何も持たない人間は、しゃかりきになってやらねば、ちょっとぐらいおかしな事でも割り切ってやらねば、と思い違いをしていました。あの時は、あれが正しいと思っていたのです。別に今だって完璧な人間ではないし、弱い人間なのですが。過去の私は、今以上に不完全で弱かった。

 うまくまとまりませんが、過ちは1回まででそこで反省して止める、二度としない、という事を、改めて自分に言い聞かせる為に書きました。シンプルだけれども、実行するのはなかなかに難しいので。