書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

愚痴を書かせて下さい。。。

 ああ、辛い。しんどい。書く事で何か癒されるものがあるので、今日もまた、愚痴を書かせて下さい。愚痴しか書かないので、お付き合い頂かなくても大丈夫です。すみません。

 愚痴って、GW中に我が家に滞在している義母の事なのです、、、。

 ああ、義母と話すのがしんどい。

 自分の不都合を、周囲のせいにするのは何故? 自分の落ち度を、不可抗力のように言うのは何故? 自分をよく見せる為に、息子に事実と異なる事を話すのは止めてください。等々、義母と話していると、次から次へと黒い思いが湧いて出てしまう。

 気にせずスルーすればいいと分かっていても、一つスルーしても、またすぐ次が来て、それをスルーしてもまたすぐ次が来て、、。一つスルーするのもそこそこ胆力がいるのに、次から次へとだと、だんだん私の心の余力がすり減っていくのが分かるのです。余力がゼロになってもまだ、聞き続けなくてはならなくて。

 これを仕事だと割り切れればいいのですが、仕事って、24時間じゃないですもんね。家でも働くとか、ないですもんね。仕事だと、どんな仕事でも、「家の外」でのことだし、それなりに「プロとしてのプライド」が持てるから、耐えられる。でも、嫁として義母と付き合うって、「家の外でも中でもずーっと」だし、プロとかそんなもんじゃない、ただの「嫁」だし。プライドなんてどこにも持てないし。

 だから、仕事として割り切るのがとても難しい。

 

 義母に関して、私が一番しんどい、と思う事は、息子の事を「心配しているのよ」といつもいつも言う事です。「〇〇ちゃんが学校でいじめられていないか、とか、ちゃんとやれているか、とか、お婆ちゃんはいつも心配しているのよ」と。自分はどれだけ優しい思いやりのある人間か、という事が言いたいのだと思います

 悪いけど、この方は、息子が発達障害児だと分かった2歳半の時、私にこう仰ったのです。「我が家に障害の家系はないから、障害の血は、そちらからのものね」と。我が家にだって私の知る限り発達障害者は一人もいませんが、そこで「いや、ウチにもいない」と言い争っても無益なこと。私は何も言い返しませんでした。

 障害児だと分かるまでは、「〇〇ちゃんを連れて遊びに帰って来い」としょっちゅう言っていたのに、いざ障害児だと分かった途端に手の平返したように冷たく疎遠になった義母。「障害はお宅の血」だけでなく、「お宅の家の先祖供養がなってないから、お宅のご先祖様が怒っているのだ」とまで言われました。我が家はわりと、先祖供養はちゃんとするほうですが、言い争っても無益なので何も返しませんでした。ただ、「ご先祖様が怒って、生まれてきた子供を障害児にしたのだ」という義母の言い方には、どうしても納得できない私がいました。

 私にとって、発達障害だろうが、息子は大切な子供なのです。新しい大切な命を、私は一生懸命産んで、精一杯育てている最中なのです。息子は、私にとっては、私の命にかえても守らねばならないもの、善なるものの象徴なのです。それを、先祖のたたり、とか、諸悪の根源、みたいに言われて、私の心の中の大きなものが壊れました。壊れましたが、私は何も言い返しませんでした。言っても、彼女に理解できるとは思えなかったからです。

 その後、成長していくにつれて、息子は良い方向に変わっていき、持って生まれた素直さや賢さが表に現れてくるようになり、また、外見も美しいという事もあって、「障害の血は我が家の家系にはない」と息子の存在を否定していた義母が、またしても手の平返したように「〇〇ちゃん(息子のこと)が一番かわいい」と、まとわりついて来るようになりました。

 そういう義母の事に、腹をたてず、むしろ「かわいがって頂いて有難い」と感謝する事を、私は自分に課しています。とても苦しい事でしたが、今はなんとかやれるようになりました。

 

 ある時、こんな事がありました。

 車に乗っていて、息子が「お婆ちゃんも車運転するの? 老人の運転は危ないってテレビで言ってたけど大丈夫?」と聞くと、「老人よりもね、若い人のほうが運転、危ないのよ。若い人の運転は本当に怖いのよ」と義母。義母の頭の中では、「頑張らないといけない人→若い人。間違っている人→若い人。頑張らなくてもいい人→自分達老人。いつも正しい人→自分達老人」という確固とした図式がある。

 そして、いつもいつも「遠慮がち」というのも腹立たしいのです。

私は後でいいから。私は一番最後でいいから。今やってくれたほうが、ずっと段取りがいいんですけど。←私の心の声)。

私は少しでいいから。(それを信じて少ししか渡さなかったら、ものすごく機嫌を悪くするでしょう。あなたの少しの基準が私には分かりません。←私の心の声)。

老人はねえ、若い人達に遠慮して遠慮して、小さく生きているのよ遠慮しなくていいです。誰も遠慮してくれ、と頼んでません。堂々と大きく生きて下さい。あなたが遠慮して小さく生きたって、誰の得にもなりません。あなた自身が、そうしたいから、そうしているのでしょう。←私の心の声)

 義母は、「私は老人だから」というのが口癖で、その後に「だから何事も、大目に見てもらって当然」と言いたいのが透けて見える。

若い人達が主役」というのも口癖で、でもその後に「頑張らねばならない、努力して生きなければいけないのは若い人達だけ。私はこのままでいい。変化する必要はない。頑張る必要はない」という考えが透けて見えるのです。

 何かを巧妙にすり替えているので、聞いていてイライラしてしまうのです。

 というか。義母のこの口癖を、私は、夫と結婚した時から聞いています。私が夫と結婚した時の義母はまだ50歳だったのです。今の私より年下です。50歳にして、すでに自分を「老人」と主張し、それを盾にご都合主義を押し通していたのです。私はもう老人だからこのままでいいの、あなた達が頑張りなさい、と。そして、「50歳の私はとても長く生きてきたのだ。沢山の苦労をし人生経験を積み上げたのだから、この私を敬いなさい。尊重しなさい」と。

 でも、今52歳の私は、とてもそんな風には感じません。自分を「すで出来上がった完成した人格で、敬われるべき老人」とは。50歳で自分を完成形(だからもう変化する必要なし)と認識していた義母は、確かに、あれから何一つ変わっていないように見えます。同じ事をずっと言い続けている。同じ場所にいる。

 

 またある時、こんな会話がありました。

 ある時、息子が「お婆ちゃん、お父さんの卒業式に行った事ある?」と聞くと、義母は「無いわ」と答えました。「入学式は?」「無いわ」「参観日は?」「無いわ」。

 義母は、自らの子育て期間には、まったく子供の事を考えてはいなかったのです。思いやりを持って丁寧に子育てしてはいなかったのです。なのに、孫に対しては、やたら「心配してるのよ」を主張する。いやいや、息子には私達親がいますので、ご心配結構です、と言いたい(言えない)。あなたがやるべきだったのは、あなた自身の子供達をしっかり育てる事だった。あなたはそれをやってない。でももうそれは過去の話で、私は過去を今さらあれこれ言う趣味はないので、それはもうそれでいいのです

 今、義母が心配すべきは、まず、義母自身の体、次に、義母の子供達、孫を心配するのは、その次で結構なのです。義母自身の事を二の次にして、孫の心配ばかりしている、と主張されても、「まあ、優しい」とは思えない。ただ、責任がないところばかりに気持ちを持っていっているだけ、逃げているだけ、としか思えない。

 義母について、一番腹立たしいのは、自分がやれていなかった事を、人には「やれ」と言う事です。例えば、「歯は大事よ。お婆ちゃんは、歯が悪いから苦労してるの。歯だけは大事にしなきゃ駄目よ」息子は生まれてから一度もむし歯を作った事がないのですが、、。「私はやらなくて苦労したから、その苦労が分かっているから、あなた達には同じ轍は踏ませたくない」と言う理屈なわけですが、そもそも自分が出来なかった事を、他人にはやらせる、というのって、おかしくないでしょうか。何故義母ができなかったかといえば、それをするのがとても大変な事だったから、ですよね。やればいい、というのは誰もが分かっていても、やるのが大変だから、誰しもができない。義母もできなかった。で、自分がやれもしなかった事を、人には「やれ、やれ」と言う。さも、思慮深い助言のように。

 自分がやってうまくいった事、自分の成功例からの実行可能な助言なら、受け取りやすいのですが、その逆は、なかなか聞きずらいものがあります。

 

 また、ある時は、こんな会話がありました。

 息子が、何の気なしに、「お婆ちゃんって、どこの大学?」と尋ねたら、「昔はねえ、大学なんて無かったのよ~」と義母(76歳)。あったよ、大学。どうしてそういう嘘を言うかな。息子は真正直に受け取るから、信じるんです、困ります。義母の目の前で、「それは嘘だよ」とは言えないし。

 義母は「お婆ちゃんは、縫い物の学校に行ったのよ。昔はそういう学校しか無かったのよ」・・・(また嘘だ←私の心の声)

でも、お婆ちゃんは、とっても縫い物が上手でね、浴衣とか袴とか良いものを作ったのよ。みんなが貸してくれって言って、お婆ちゃんが作ったものを借りに来たのよ。でも、返してくれないの。昔はみんな、借りたものを返さない人が多かったのよ」・・・(そんなわけない。あなたの周囲がそういう人間ばかりだっただけでしょう←私の心の声)

 「返してって、言わなかったの?」と息子が聞くと、「言ったけど、『そのうちね~』と言われるばかりで、返してくれないのよ。結局、持ってって返してくれないのよ。そういう人、本当に多いわよ」んなわけないでしょう。そういう人もいるかもしれないけど、大多数の人は、借りたモノは返すし、ましてやしつこく催促されたらまず返しますよ。あなたの周囲に、そういう非常識な人ばかりがいた、という事なだけでしょう。私の周囲にはそんな人いないです。息子が信じるから嘘は止めて。←私の心の声)

 こうやって書くと、スルーすればよい、と冷静に分かるのだけれど、その場で聞いていると、イライラしてしまうのです、、。

 義母の足の事も、むくんだ足を見せてきて、辛い痛い、と私に訴えるわけです。そして「夜中に痛みで何度も起きるのよ。痛くてどうしようもなくて、起き上がって神様に『助けて下さい。助けて下さい』って祈るのよ」と言い募る。それはお辛いですね、大変ですね、しんどいですね、と私も何度も繰り返し同情して言うのですが、キリがないのですね。いつまでも「辛い、しんどい、私はかわいそう」が終わらない。

 ボケてるわけではないのです。しっかりしているのに、ただ、同情されたい、という気持ちをこちらに延々押し付けてくる。

 たまりかねて「病院へは行ったのですか?」と尋ねると、「行ったわよ。すぐに行ったわ。私はね、少しでも悪い所があると、まっさきに病院へ行くのよ。でも、病院ではどこも悪くないって言われたのよ」「どこも悪くないとは?」「だから、レントゲンも撮ったし、色々みてもらったけども、血流も大丈夫だし、どこも悪くないって

 それは、「どこも悪いところはない」という意味ではなく、「むくみの原因が分からない」という事だと思います。現に、足は異様にむくんでいて、痛みもあるのですから。病院の検査で、原因が分からなかった、というだけの事だと思われます。

 にも関わらず、義母は「病院に行って、どこも悪くない、と言われたから」と、何もしていない自分を正しい、と言い続けるわけです。

 いやいやいや。せめて、本屋さんで、むくみに関する本の一冊でも買って読んでみたら?と私は思う。漢方や、鍼や、整体や、ツボ押しや、ストレッチや、生活習慣や、飲食物の改善で、治る可能性もあるわけだから。

 とはいえ、整体や鍼は、良い所を探すのに多少の時間はかかる(人に聞いて情報を集めないといけないから)ので、今すぐ出来る事、と思って、私が、「ストレッチされてみたらどうですか?」と言ったら、義母はあからさまに嫌な顔をして「ストレッチなんて、、、」と言うのです。自ら痛い思いや面倒な思いをして治す、という方法は、とりたくないらしい。「ストレッチなんて、誰もしてないわよ」と義母。いや、私、やってますけど。。。

 「たしか、くるぶしの周囲のツボを押すと、むくみが治るらしいですよ」と私がかすかな記憶を頼りに、義母のくるぶしを押さえようとしたら、むくみが酷過ぎて、くるぶしの位置が分からない。骨が触らないのです。「え、、、、」と思ったのですが、気を取り直し、「膝の周囲のツボでもいいみたいです」と、更に記憶を頼りに、義母の膝の皿を押さえようとしたら、こちらもよく分からない。むくみが酷過ぎて。

 要は、むくみが酷過ぎて、足の骨の位置が分からないのです。だから素人が自分でツボ押しするのは無理で。やっぱりプロの所に行ったほうがよくないですか?と義母に言ったのですが、まるで他人事のように、「そうね、そうらしいね」と聞き流す。

 治す気ないのだろうか。。どうして、自分の体の事、もっとちゃんと考えないの? 

 そのくせ、息子の姿勢が悪い、と、事あるごとに息子の背中を叩いて、「姿勢をちゃんとして、ほら」と叱っている義母。いやいや、あなたこそ、ちゃんとして(←私の心の声)。

 

 義母は今は70代で、お年寄りで、親切にしてあげねばならない存在だと思いますが、どうしてもそう思えない私がいます。表面的には親切に接していますが、これも期間限定だからできる事で、長期間は絶対に無理です。この、お腹の底から湧いてくる義母への激しい嫌悪感は、一体何なのか。我ながら分かりません。私の人生で、これほどまでに「うっとおしい」と感じる人は、他にいません。とことん相性が悪い、としか言いようがないのです。

 義母が赤の他人であれば、一切気にならないだろうし、身内でも物理的に離れていれば、意思の力で存在を消して気にしないようにする事が可能です。通常の私は、そうやっている(意識の中から義母の存在を消している)ので、至って平和に暮らしているのですが、こうやってベタベタと近くに来られると、嫌悪感を抑えるのに必死。

 ああ、嫌、ああ、嫌、ああ、嫌、とずっと思っていて、それを顔に出さないようにするのに必死。

 改めて、私の我慢の無さ、忍耐力の欠如、我儘さ、を認識します。

 キリがないですね。こんな日々です。愚痴ばっかりですみません。あと二日。頑張ります。義母が帰ったら、頭に十円禿ができていて、全身蕁麻疹になり、クランケ浮腫も再発することでしょう。霊格上げるとか何とか、ふわふわした事を言っている私が、一番肝心な所で、自分を律しきれていないこのふがいなさ。

 無になって流す。無になって流す。気にしない。心に入れない。淡々と過ごす。腹を立てない。非をとがめない。私自身の我を通さない。どんな事にも目をつぶる。

 そして何より、その苦しさをこうやって他人に聞いてもらおうとしない。

 私自身の中で、自力で消化し、消し去る。

 よし。決めた。今この瞬間から、やる。

 

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