書くしかできない

過ぎていく日々を書き留めています

心にピタッと合うものは。

 今日も今日とて、つれづれに思う漠然とした事を書きます。

 心にピタッと合うものは、自分が聞きたい言葉、であります。自分が聞いて「ああ、その通り」と思える言葉。私は、日常的にそういう言葉を求めて、人と話し、SNSを読みます。

 でも、よくよく考えてみたのです。「自分が聞きたい言葉」ばかりを求めることは、自分にとって良い事なのだろうか、と。

 「自分が聞きたい言葉」は、つまり、自分の考えや思いを肯定してくれる言葉、です。それは表面的には、自分の立場や方向性の逆、だったりしますが、それが「自分が聞きたい言葉」であるならば、そもそも、自分の表層的な立場や方向性のほうが実は、偽りなのだと思います。つまり、自分の本当の考えや思いは、自分の表層的な方向性と逆である、という事です。

 ややこしくてすみません。

 つまり、例えばこういう事です。

 「周りの人にいっぱい頼って助けてもらいながら生きて生きましょう」

というような言葉が、心にピタッときた時。自分としては「私は独立心が強く、他人に助けを求めるのを駄目だと感じるタイプだけど、もっと助けを求めてもいいのだな。良い事を学んだ」という風に感じたとします。

 でもこういう時、本当は、自分は「我慢強い人間」ではない、のだと思う。本当は、依存心が強いタイプなのだと思います。でも、依存心が強いままで生きていると、人生のアチコチで痛い目に遭うので、これでは駄目だと無意識に思い、独立心を身に着けようという方向に頑張っている途中なのだと思います。でも、もともと依存心が強いから、それはとてもしんどい事。

 だからこそ「助けを求めるべき」という言葉が、心にピタッとはまるのだと思うのです。もともと、自分は「助けを求めたい」のだから。そっちが自分の本性だから。

(ちなみに、これはあくまでも例え話であって、私自身の事ではありません。私は「助けを求めるべき」という言葉は心にピタッとはまりませんので、、、)

 自分の中に無いものを、外から与えられても、私は、それを抵抗なく受け入れる事はできないと思います。

 ここで最初に戻ります。

 「自分が聞きたい言葉」ばかりを求めることは、自分にとって良い事なのだろうか、と。

 自分が聞きたい言葉、というのは、自分が意識しているいない関わらず(ほとんどの場合、意識していない)、自分がもともと持っている自分の本性を肯定する言葉です。だからピタッとくる。そういうものばかり求めていて、良いわけはないな、と、思うのです。本性に沿うものがラクなのは当たり前の話で。

 いや、ラクだから駄目だと言いたいわけではないのですが。ラクだけを求めていては良くないだろうなあと思うのです。本性に沿うものだけを求めて生きるのは、ずっと下り坂を下りていくようなもので、ラクだけどあまりいい事じゃない、と思うのです。上り坂ばかりで疲れてしまった時に時々、というならいいのだけれど。

 かといって、自分が聞きたくない言葉、心に抵抗感を感じる言葉を聞いても、反発心が湧くばかり。

 であれば。「言葉」というものには、たいして意味はないんだろうな、と最近よく思います。結局私は、自分の本性に合うものしか、受け入れないのですから。

 どうやったら良くなっていけるのだろう、と考える時、その答えを「言葉」に求めるのではなく、「行動」や「現実」に求める。それしかないのだろうなあと思います。「行動」や「現実」は、そのものズバリだから。 

  それから、心に抵抗を感じる言葉でも、冷静になって考えた時に、一般的には良い事なのだろうなあと思われる言葉は、避けずに受け取るようにしたいと思います。これはとても難しいですが、、。

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