書くしかできない

発達障害の息子、夫、私。過ぎていく日々を書き留めています

全ては人生で答えが出る

 ふと目にしてしまったブログ記事。こういう風に考える方は、沢山おられるのだろうか。分かりませんが。ネガティブな視点で書いてしまいそうなので、引用はやめておきますが、こんな感じの内容でした。

 私は、子供は可愛いけれど、子供の面倒を見る事は嫌い。怒ってキレて、娘を叩いて、蹴って、子供が傷つく暴言(「もう死んでよ」「あなたなんかいらない」)を吐き、でも、少し時間がたって落ち着いたら、「ごめんね、大好きだよ」「あなたはママの宝物だよ」と言ってきた。

 子供を叩いている私の中にも愛情はある。「愛情があるなら、叩くはずがない」と世間は見るだろうから、そう見られるのがとっても苦しかった。自分の中にある「世間の目」に縛られて、自分を責めて、苦しかった。

 努力、反省、どうしたら叩かなくなるか。自分なりに散々いろいろやったけど、できなかった。できないのだ。それで自分を責めると、また怒りが娘に向かってしまう。

 だから、できないことをどうこうするより、落ち着いて、普通の状態に戻った時に、「大好きだよ」「宝物だよ」をたくさん言うことにした。これって、DVする人の特徴らしい。それでもいい。
 ある時、
私が娘を怒って叩こうとしたときに、娘が泣きながら言った。「私はママの宝物なんじゃないの?どうして叩くの?」
 え、この子は、そっちの言葉を採用してるんだ。私はこんなに叩いてるのに、私
はこんなに酷い言葉を投げつけてるのに、そっちの回数の方が多いのに、娘は私の「あなたはママの宝物」という言葉のほう
を、自分の中に入れているんだ。支離滅裂でもいいから、娘を虐待した後に「あなたは宝物」と言い続けてきて良かったと思った。

 子供に手をあげたり怒鳴ったり、世間から見たら子どもに酷く当たっているかもしれない親たちは、みんな、自分が許せなくて、心の中で、苦しんでいる。私が子育てで苦しい時、1番いらなかったのが、正論だった。「子供に暴言吐くなんてダメ。叩くなんてダメ。ダメなものはダメ。虐待されて育った子がどれだけ苦しむか知ってるの?心の傷は消えないんだよ」

  どうすべきか、なんて、子どもに何が大切か、なんて、子どもに何が悪影響か、なんて、全部わかってた。わかっててもできないから、苦しかった。反省なんて、山ほどした。何度も何度も反省した。それでも、頭でわかっていても、できない自分に何度も直面した。それでも、お母さんだからがんばらないと我慢しないと、そうやって、ひたすらがんばってきた。

  だけど、できない。子供に優しくできない。余裕がなくて、できない時がある。子どもの心に傷をつけてしまったと、何度も何度も自分を責めた。どうすべきかなんて、頭じゃわかってる。わかってても、できない。

 子どもに手をあげたり、暴言を吐いたり、家から締め出したり、酷い仕打ちをしていた時、「この世からいなくなればいい」と思っていたのは、子供ではなく、自分に対してだった。私がお母さんでごめん、と思っていた。私なんかがお母さんで、何てこの子たちは不幸なのかと思っていた。子どもたちを助けてあげて欲しいと、誰か、この子たちを助けてあげて欲しいと、切実に思っていた。理想通りに愛せないことが死にたいくらいつらくて、それでも死ねない自分が大嫌いだった。だからわたしは、子供を虐待して自分を責めている人に、言いたい。あなたは、間違っていない、と。

 同じような内容の方、お二人のブログ記事からの一部です。

 以前の私は、こういうものを読むと、なんとも言えない辛い気持ちになっていました。虐待されたお子さんたちの苦しさを思うと、胸が一杯になりました。

 また同時に、親御さん方にも、同情しました。こういう方々はきっと、とても楽天的な方々なのだろうなあと。でも、子育ては思ったほどラクではなく、苦しいばかりで、苦しんで苦しんだ末に、虐待に至ってしまったのだろうなあ、と。そして、虐待した事自体にもまた、苦しんでおられるんだろうなあと。

 また、これも同時に、ですが、親御さん達の自己正当化にも疑問を感じてしまいました。

 例えば、前半の方は、この方は、お子さんを虐待した後に「あなたはママの宝物だよ」と言い続けて来た、その言葉は子供にしっかり伝わっていた、言ってきて良かった、という内容でした。でも本当にそうなのか。母親から殴られそうになった子供が、必死になってそれを止めてもらおうと、母親の言動の矛盾を突いただけなのではないか、と私には思える。このお子さんは、母親が自分のことを宝物だと思っている、と、本当に信じているのだろうか、と。

 後半の方は、もう少し過激で、子供を虐待してきた母親たちに対して「あなたは間違っていない」と伝えています。その根拠として、虐待してきた母親自身も苦しかったのだから、という理由を挙げておられます。また「虐待はいけない」ということを、ただの正論だと決めつけておられます。更に、「誰か、この子たちを助けてあげて欲しいと、切実に思っていた。」と、まるでそれが母性の証明のように語っておられます。

 もし私の母親が、こういう女性達だったら、私はとても辛い子供時代を送っただろうと思います。だからこそ、こういうものを読んでしまうと、私はとても辛くなるし、いたたまれなくなったのです。

 でも最近は、違う感想を持つようになりました。

 「全て、自分がした事は、自分に返ってくる」という事を、私は実感として信じるようになったからです。

 子供を虐待した人が、ただ「私も辛かった。苦しんだ」という理由で自己正当化して全てがチャラになるという事はあり得ない、ということを、実感として信じるようになりました。

 子供を虐待せざるを得なかった、その時の自分は未熟で、そうせざるを得なかったのだと言うなら、それでいいのだと思います。仕方ないことです。でも、やった事は必ず自分に返ってくる。子供を死ぬほど苦しめたのなら、いつか自身も同じだけの苦しさを受ける。そういう運命を自身で作ったのだ、という事です。ご自身がどういう自己正当化をしようが、どういう解釈をしようが、客観的事実は運命として、ご自身に返ってくる、それだけの事です。宇宙の絶対神というのは、そこは実にシビアにとりこぼしなく行うものだ、という事を、私は実感しています。

 また同時に、心に傷を受けたお子さんたちは、神社仏閣で助けられる、と私は信じるようになりました。だから大丈夫なのだ、と。

 虐待した側の親は、上手に逃げていられるように見えるけれども、そうではない、人生というのは、そういう風にはできていない、という事。また、虐待された子供もきっと救われる、と私は信じるようになりました。

 もし、虐待した親の側に、虐待しても仕方のない正当な事情があるのであれば、宇宙のしくみとして、それなりの配慮がなされるでしょう。

 たとえば、同じ「人殺し」でも、戦争中に致し方なく行ったものと、私利私欲の為に行ったものとでは、性質が全く違う。そういうことが、「虐待」にもあてはまるだろうと思われます。

 過去に自分が行ってきた事、自分が今現在行っている事、人はそれぞれ自己正当化するものです。私もします。でもそんな個々人の自分勝手な自己正当化は、宇宙の大きな仕組みの前では、何の効力も持たないのです。宇宙の大きな仕組みの中では、ただシンプルに、自分がやった事、やっている事の答えが、自分の人生に出てくるだけの事なのだと、私は思います。

 そういう風に信じるようになってから、私は、虐待の話を聞いても、あまり辛くなり過ぎなくなりました。たとえその子供が虐待で死んでしまったとしても、それはもう今世では立ち行きが難しかったから今世は終わらせて、来世以降に救われるという事なのだと思うようになりました。

 それに。上の一連のブログ記事を拝読して改めて強く思ったのですが、虐待している人に「虐待は止めて」と言っても、無益で無駄で意味がないのだなあと。それはただの「正論」で、「正論なんて、言われなくても分かっている」。以前から何度も何度も繰り返し思う事だけれど、他人に対して注意しても、意味がないのです。注意されて我が身を省み行動を改められる人なんて、いないのだから。

 人はみな、自分が痛い目に遭う事以外に、自分の行動を改める事はできないのだと思います。

 私がそう勝手に思っている、というだけで、これが事実かどうかは分かりませんが。

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  自分のエゴに従って好き勝手したら、その時はとてもラクになるのです。それは確かなのです。ストレスも解消されるのです。でも、同時に「負」も溜まって行くという事。その「負」はどこに溜まるのかというと、自分の未来に溜まって行くのです。だから、ある程度は慎重に、生きていかなければいけないと、私は思うのです。

 何でも我慢しろ、とか、耐え忍べ、とか言いたいのではなく。むしろ、我慢したり耐え忍ばなくてもいいように、考えて生きたほうがいい、と思うのです。我慢したり耐え忍ばなくてはいけない場面に、自分を追い込まないように。考えながら生きる、という事は大事だと思う。

 また、運が悪いなあ、とか、理不尽な目に遭ってしまったなあ、という時は、過去自分がしてしまった事が自分に返って来ているだけの事だと思うので、「ああ、過去の負がこれで清算できたのなら良かったな」と、思うようにしています。そうすると、腹が立つ事があまりなくなります。

 全ては自分のしてきた事が、自分の人生に、次々と出てくるだけの事だ、ということ。それだけなのだという事を、私はしみじみ思うのです。